20190305

たびびと What a wonderful WANDERLUST DAY. 2019年の100日記

「詩人によって、詩の書き方はそれぞれ違いますが、
ぼくの場合は、詩を書くために必要なことは、
詩を書く作業ではなく、詩を聞く作業。
旅や冒険を渇望する心を表するwanderlustの、
ひとまず幕をおろすこの時に、どんな詩が聞こえてくるのか。
場所と、二人の店主、そしてそれらを愛した人たち、
皆が胸に秘めるだろう、一抹の寂しさと、門出への期待を、
代弁するような詩は、どんな言葉で聞こえてくるのか。
そんなことを頭の隅に置きながら、過ごしていました。
ぼくもちょうど旅をしていたので、ちょうど良いoccationでした。
長いインプットを終えて、アウトプットし始めたのが、帰国後でした。」

先日、スコットランド旅から帰国したばかりの詩人、ウチダゴウさんから届いたメッセージです。そうして詩が届きました。


たびびと


2019年3月3日の What a wonderful “WANDERLUST DAY!” という特別な日の為に、職業詩人(プロの詩人)に、詩の制作を依頼しました。WANDERLUSTのことを詩にしてほしい。なんとなく頭に描いていたのは、お花と絵にまつわるカラフルでハッピーな詩でした。WANDERLUSTはフローリストと、スケッチジャーナリスト二人のシェアアトリエ&ショップです。ここで過ごした4年間どれほどの煌めく瞬間を2人で過ごして来たのか、数々の思い出をなぞりながら詩の到着を心待ちにしていました。詩が届いたらすぐに、WANDERLUSTの片われのフローリストと、きゃっきゃしながら詩を読むんだと、そう思っていたのです。


「たびびと」をはじめて読んだ時、とても動揺しました。想像していたのとは全く違う詩でした。胸を締め付けられる思いでした。「どうして、」とつぶやきました。


のどにつまった ことばを  
すべて しずかに  のみこんで
やがてわたしは  そこをたちさるの




「たびびと」の一部分です。
どう考えても、わたし、真子のことをうたった詩でしょう。
でもわたしはひとこともそんな説明  (のどにつまった言葉をのみ込んでいるだなんて話)を詩人にしていないのです。
「どうして、わたしが、たくさんのことばを、のみこんでいると、?」

心を読まれているのかとヒンヤリしました。


少しでもわたし真子という人間に会ったことがある人ならば
「真子ちゃんはお喋りな人」という印象を持っている人が多いのではないでしょうか。
よく喋るし、よく書くし、隠しごとなくおおっ広げな人だなぁと、思っている人も多いだろうと自分では思っています。WANDERLUSTという場所は、おしゃべりな絵描きの真子と、秘密めいたフローリストの二人のアトリエ。そういうニュアンスのことを言われことが一度ならずなんどかあります。だからどちらかというと、


「のどにつまった ことばを  
すべて しずかに  のみこんで」
という言葉から連想しやすいのは、相方のフローリストの方のイメージで
決してお喋りな絵描きの方ではないはずです。


でも詩人は、言葉を飲み込むのは、旅立つ絵描きの方、すなわちお喋りなわたしの方に
なぜ詩人はそう思ったのでしょうか?または、そう書いたのでしょうか?
一般的に人は、旅立ちのシーンでは口をつぐむものだから…?いやいやそんな一般的な解をあてはめるようなことはきっとしないはず。なぜならプロの詩人だから。WANDERLUSTという具体的な場所をテーマにとお願いしているし、そうお願いできるくらいにはWANDERLUSTのことを知っている人なはずです。2人の店主のことも、知っているはず。


詩人ウチダゴウさんは、わたしが想像している以上に、鋭いまなざしで、WANDERLUSTのことを見ていたのかもしれない。そう思いました。彼のことを見誤っていたかもしれない…つまり、彼の観察眼をなめていたかもしれない。ウチダゴウさんの言うところの「詩を書く作業ではなく、詩を聞く作業」とはこういうことですか、と、ハハーと頭が地面に擦りそうになるくらい垂れていきます。



すべて しずかに のみこんで

すべて
と詩が言っています。現実の状況説明を書いているのではなく、これは詩なのだから「詩情を、言葉で表現している」フィクションと捉えることもできるでしょう。でも、わたしにとっては、これは、実に、現実に即した解説のような言葉です。よく、捉えられている。つまり、わたし自身の自覚として、「のどにつまった ことばを  すべて しずかに  のみこんで」いるという感覚があったということです。「たびだち」を意識してから、3/3を迎えるこれまで、それはとても長く長く感じられる時間、なんどもなんども飲み込んでいる言葉の数々は、これから先、吐き出されることはないでしょう。むこうに落ちて沈んでいった言葉は、浮かびあがることなく沈殿している…これまでの人生でもよくあることです。それでいい、と思っています。というか、そのようにしかできない、ので、どうしようも無いのです。変えなさいと言われてできるものではない。ただ、やはりくるしいことにはくるしいのです。


どんな言葉を飲み込んだのか、詩には何も書かれていません。ただ、言葉を飲み込んだと、それだけ。でもそのひとことがあったことで、何も書かれていない沈んだ何かの気配がユラリとします。そのユラリが、わたしの心をひどく揺さぶるのです。そういうわけで初めて「たびびと」を読んだ時、わたしは動揺したのです。










さて、話は変わり、詩の表現方法についてです。この表現というのは、詩の言葉えらびの次の段階です。「できあがった詩をどのように、人に伝えるのか」ということです。

「3/3の会に、参加が叶わず、申し訳ありません。
が、この詩によって、参加ができたならと思います。
当日読んでいただいても構いませんし、
真子さんの文字でウィンドウに描いてもらっても構いません。」

詩人に任せられました。なんて責任重大なのでしょうか。この伝え方次第で、詩の印象がガラリと変わってしまいます。

わたしが表現するのなら、それは読むより、かく方がいい。事前にかいておくのではなく、その場で、ライブ感をもってかきたい。3/3の後半、締めを詩で、しっとり抽象的にしめるのもいいかもしれない。「事前に誰にも詩の内容を知られないようにして」当日の詩の時間をむかえた方がいいんじゃないか、と、そう初稿をもらい初見した時に思いました。




さて、依頼した詩です。おそれおおいことながら、少しかき直してもらうように注文しました。とはいえ、ウチダゴウさんには知らせていない(知らせることのできなかった)、あらたな状況がうまれたからです。それはウチダゴウさんには何のひもないこと。かき直してだなんて失礼だと思いながらも、でもどうしても3/3で発表するなら私にとってすごく大事な日なので、引っかかりを残しておきたくない。と修正を依頼しました。すると、かきなおした詩が届くのは、3日ギリギリになるかもしれない、との連絡をうけました。ご自身の展示もある時期で忙しいのも承知のこと。しかし、焦りました。

詩をもらってから時間があれば、よくよく読み込んで、どんな文字をどう配置していくかなどテストすることができますが、ギリギリ到着では、詩が届いてから、ぶっつけ本番でオンステージです。普段、下描きなしの一発勝負の絵を描くのは好きですが、でもそれは、これまで何度も描いてきて手に脳が宿っているくらいよく手が動くから。絵ではなく、「ことばの連なるもの」を手がきするのは、ずいぶん勝手が違います。突然どうこうする自信が全くありませんでした。そこで、わたしの信頼する表現者の方の、お力をおかりすることとしました。音楽家の平松良太さんです。作曲家でピアノ奏者。WANDERLUSTのピアノ、WANDERPIANOの持ち主のひとりでもあります。「事前に誰にも詩の内容を知られないようにして」と思っていたけれど、平松さんは別枠です、共演者になっていただこうと。

かくして、ほんとうに直前に届いた詩を、平松さんによんでもらいました。
「これは真子ちゃんの詩ですね。真子ちゃん1人で、読むより描くのが良いかなと思いました。」そう、わたしが想像し、希望していた方法と同じでひとまずホッとしました。
「RYOTA HIRAMATSU/3     19曲目にrainbowという曲があります。CDだと8分ぐらい。
これだとぴったりかなと思います。」「曲でなくその場の感じでフリーに弾いても良いです。何れにしても音があった方が真子ちゃんらしい空気になる気はしました。」音についてはおまかせすることとしました。平松さんの思う「真子ちゃんらしい空気」を作ってもらえるなら、その音に身をまかせようと。

一点最後まで、詩の時間の直前まで迷っていたことがあります。「ウチダゴウさんがかいてくれた詩です」ということを、説明するか否か。口頭でか、もしくはpoem by...と書くか、もしくは、サイレンスか。どれが一番良いチョイスなのか全く分からず、平松さんのいうことに異論なく従うつもりで相談。結果。ここは何も言わずに、真子ちゃんの言葉として静かにかくのがいいだろう、その方が、その場にいる人の胸を打つだろう。その通りにしてみました。演出家としての平松さんの名采配だったと思います。

ウチダゴウさんが代弁してくれた真子のきもちをかいた詩を、こんどは真子が代弁者として人に伝える、という二重の代弁劇。ゴウさんの詩が自分の詩となって、自分の内側から溢れてくる不思議な感覚。

かきはじめてすぐに、きもちがきゅーーーんとなりすぎて、手が思うように動かず
ものすっごく下手くそな文字が出来上がってびっくりしました。こんなへなちょこな文字ははじめてです。「たびびと」まずたった4文字のその言葉をかいただけで、事態の異常さに気がつきました。「線がコントロールできていない…!これ誰の文字だろう?」詩をかきすすめます。どうにも視界がかすみます。目がうるむのです。ゴウさんの詩が頭の中を通って、指先にたどり着く前に、私の目のあたりで涙になってポロンポロン落ちるのです。詩を書き写しながら泣くだなんて、そんなこと、これまでにあったでしょうか?たぶんこれがはじめてです。きもちが動きすぎて落ち着かず、涙で霞んでしまって視界もおぼろげ、呼吸も浅くなり、さっそくしょっぱなから間違えてかいてしまったり…表現者として、たぶん失格です、ただ全身がゴウさんの詩に浸っておりました。



お花の絵を一輪かいて添えたのですが、こちらは泣いててもスルスルかけました。やはりわたしはこれまで絵描きとして鍛えてきていて、言葉かきとしての鍛錬は圧倒的に足りてないんだと実感。絵描きとして、花の絵をかくことは、深呼吸するようなもの。呼吸が整えば、きもちも整います。気をとりなおしてもう一度、ペンとガラスと向き合います。そうしてかきうつし終えた頃には胸がいっぱいで、泣けちゃって泣けちゃって、もう何も喋れなくなっていました。



ふと振り返ると、そこに居た何人かの目がわたしと同じく涙で濡れているようなのを見つけました。詩がこんなに人のこころを動かすのか、共感を誘うのか、と驚きました。想像以上で、びっくりです。ウチダゴウさんのすごさを、こんなに感じたのは、はじめてのことです。すごい詩人だ。そして、平松さんのrainbow無くしてあの時間は作れなかった。たぶん、ただ詩の文字の印刷されたものをわたされて黙読しただけだったら、あんなに人を泣かせられない。シュチエーションと、タイミングと、詩をかくのにかかった時間と、ピアノの音と、全ての歯車がカチっと合ったからこそ生まれえたのだと思います。あの日、あの時、あの場に居合わせてくれたみなさんだけが体験できた、奇跡の時間。


1日過ぎて、今日、この場で、告白します。あの日あの時かいた言葉はわたしの言葉ではありません。真子のきもちを代弁しているのであろう言葉をウチダゴウさんが詩にしてくれました。



詩人、ウチダゴウさんの詩を
わたし真子が、タイミングを選びガラスにかきつけ
平松良太さんが、演出を考え音を添えてくれた。
3人の共同作品です。
その場に居て一緒に感動してくれたみなさんも
一緒にあの時間をつくったのだとおもいます。
そういう意味では何十人に共同制作でしたね。
良い時間でした。

2019年3月3日の What a wonderful "WANDERLUST DAY! "というイベントのしめくくり「たびびと」の時間についての日記でした。

Thank you.





みちはおれて わかれていく

いつかどこかで またあえるけど

いつどこなのか わからない

それまでずっと つづけるの

あなたのたび  わたしのたび

どこまでもずっと つづくのよ

こころがたびを   のぞむかぎり






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