20220429

海辺の水着の老夫婦

 【後ろの表紙をひょいとめくると 折り返した部分に海辺の水着の老夫婦】


2022年4月29日。印刷製本された「本」が家に届きました。ここまで3年ほどかけてつくってきた本です。いよいよ完成直近。今から取り組むのは、表紙のカバーを手折りして本にくるりと巻き付ける作業。

いくら手間をかけても惜しくないと、多大なる時間と労力をかけてつくってきた「本」。最後の最後にもうひと仕事の手仕事です。贈り物をラッピングするようなひと時です。
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もし、あなたにとっての“仕事”が「お金を稼ぐこと/お金を効率よく稼ぐこと」だとしたら、私の「本」は“仕事”とは呼べないでしょう。

いち個人として、小部数の本をつくるとすると金銭的には、なかなか大変です。「一般的に本屋さんに並んでいる本の販売価格」を上回る原価が一冊にかかってしまっています。私の手間代を入れないで出した原価で、です。

それでも「つくらずにはいられなかった」のです。「どうしてもつくらねばならないもの」として黙々と手と頭を動かし続けてきました。

なんのために本をつくっているか、と質問されても即答が難しいです。「明確な目的に向かって合理的に選んだ最適な手段」ではけしてありません。

「私が生きていること」と同じくらい、「よくわからないけど、やるしかなくて、すごく大変だけど、すごく楽しいこと」が、私にとっての本づくりです。

全くもっていったいどれほどの手間をかけてきたのか、というほどコツコツと作り続けた上に、最後にまだ手で作業をしています。一冊一冊、表紙を本に巻きつけています。

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表紙は3種類用意することにしました。表紙のひとつ、ベーシックな黄緑表紙の一部分をちょこっとチラ見せ。折り返した部分に、小さく描かれた水着の老夫婦。お花をプレゼントしています。

私の本も「贈り物」なのかもしれないなぁ。

なぜどうして「贈り物」なのか。誰への「贈り物」なのか。ひとことで説明するのはすごく難しいんですが、読んでもらえば分かる…かもしれません。

私の人生の一部分、
生きていることそのもの、
私のかけらのような「本」がもうじき完成します。

「本」の出版まであと少し




20220424

タケノコ

 第三次成長期か、というくらいメキメキバキバキと自分が変わっている真っ最中のこの頃。大人になっても、人はこんなにも変わることができるんですね。

「そなたは私、私はそなた」状態の…自他の境界が曖昧らしい小さな人と、四六時中一緒にいることで、私は変わることを余儀なくされています。

ある日、生まれて数ヶ月の赤ちゃんが、眉間に皺寄せてむずかしそうな顔するのを見て、ハッとしました。あらいけない!
きっと私がそんな顔してたのを真似したんでしょうね。ひゅっと心臓が縮まる思いがしました。あぁもっと笑顔でいなくちゃ!



赤ちゃんに話しかける言葉にも、よく立ち止まっては訂正をしています。「…ちょっと待って。今私こう言ったけど…考えてみたらちょっと違ってるかもしれない。ウェイタセカンド……(しばらく考える)…そうね、やっぱりさっきの言葉訂正させてね。あのね…」と言った感じに。

自分の立ち居振る舞いや言葉づかい、表情などをこれまでになく気にするようになりました。背筋を伸ばしたり、姿勢を気にする機会も日に何度も…増えてきました。

ずーっとそんな調子で我がふりを振り返ってるから、緊張が続く感じで、けっこう疲れるんですが…でもそのうち自分のものにできたら、疲れないでできるようになる日がきっと来るはず。自然に今より優しく柔らかくきれいな行動と言葉づかいができるようになっているはず…!なっていたい




自分ごとで発見がひとつ。あまり自覚してなかったんですが、1人でいる時の、ひとりごとがすごく多いんですね。声に出して喋ってる。

実は…お恥ずかしいことながら、結構愚痴が多いんです。だいたい、外で嫌なことを言われたりされた時、その場で黙って我慢し、1人になった時に思いっきりぶつくさ言って吐き出してスッキリさせてました。誰かにパッと聞かれた時に分かんないようにと時々英語にしてブツブツ言ってる…。なんかこうやって言葉にしちゃうと、くらい人ですね(これだって実は成長してて、20代の頃は人に愚痴を聞いてもらってたのを、30代半ばになって「愚痴を人に聞かせちゃいけないなっ」って考えを改めたんです。結果、ひとりごとに落ちついたんだと…たぶんそうだと思います)

ダメですね。いけません。
ついブツブツひとりごとの愚痴を言いそうになるときに、すぐそばで小さな人のつぶらなひとみがこちらを見てるのにハッとします。この無垢なる存在に私の愚痴を聞かせちゃいけない…!

しばらく、苦戦つづき。まずは「どうしたら、この人の耳に入れることなく愚痴を言えるか…」と考えました。しばらく「ひとりごとの愚痴を言う時間と場所を探す」ということをしていたんですが、ナイですね。今のところ見つからない。で、作戦を変えることにしました。

「ブツブツ愚痴を言わない人になろう!」
って言ってすぐ愚痴言わない人になれたら苦労しません。考えました。どうしたら愚痴を言わないでやっていけるか。

で、今のところの方向性としては…「外のストレスを自分の暮らしに持ち帰らない!」嫌なことを言われたりされた時、これまでみたいに黙ってサンドバッグになるんじゃなくて、少しでも思ってることを言って伝えることに決めました。

ストレスを溜めすぎないように、ちょいちょいピシャっと発言しよう。ストレス問題はその場その場で解消(まではいかなくても減少)させるという方向で、しばらく試してみます。

揉め事にならない程度にしたいからその辺が難しいですね。“ぶつかりオジサン”に遭遇してぶつかられた時は反撃すると大変なことになりそうだし…どうしたらいいんだろ。
(”ぶつかりオジサン”都会の駅など人混みにいる時がある。おなかの大きな妊婦さんにわざとぶつかったりする嫌なやつ。なぜそんな行動に出るのか不明。)

他にもいろいろ試してみようと思ってます。脱ストレス!愚痴を言わない人に!


とにかく「愚痴を言わない人になる」と決めたことが一番大きいことかも知れません。「愚痴を言う場所とタイミングを探す」って頭だった時に比べ、なんて言うかちょっと…気持ちが軽くなった気がします。あれ、私最近、愚痴のひとりごとでなくなってきた…!?ような…気がする!

すっごい大きな変化!!!の真っ只中にいます。

何か意見をいうたびに、ひとつづつ、それでいいのか考えるのも、気に入っています。この習慣続けていきたい


写真は昨日、感動したもの!

なにこの造形、ものすんごいなぁ!パワフルだなぁ!!岡本太郎さんみたいな、ズドォンとくる迫力!こりゃぁやばいなぁ…すっごいなぁ…!胸がザワつく!と大騒ぎしたくなるくらい。

竹林でタケノコ掘り。タケノコの造形の魅力は、パイナップルに通じるところがありますね(パイナップル好き)。

タケノコの成長にあやかって、
私も成長したい。ところであります。


20220422

私が歳をとった時には あなたのようでありたいと



私が歳をとった時には

あなたのようでありたいと
何度思ったことでしょう。
心から尊敬しています。
あたたかい感動に満ちた
数々のメッセージ
次世代への熱い応援を胸に
私もがんばります。
柳生博さんのエッセイに
挿絵を描き続けさせてもらって
私、幸せでした。
ありがとうございました。
R.I.P

本と写真 / My book and photography 


もうじき出版予定の私の「作品集+エッセイ集」の大切な要素に「写真」があります。

タスマニアでの写真は主にRaja(ラジャ) @raja.syazwina.rs.photography が撮ってくれたもの、
日本での写真は田中江理ちゃん @2komat によるものがメインです。
2人とも、私が学生だった時に出会っており(タスマニア大学と名古屋市立大学)、当時は趣味で写真を撮っていた2人ともが、卒業後何年もたった今もカメラを構えています。

Raja https://www.rajasyazwinarsphotography.com/ 

作品集をまとめるにあたり、私が当初思い描いていた本は「絵」がメインの本でした。しかし、デザイナーさんから「写真をいれたい」との提案がありました。制作風景を撮った写真や、作者(真子)自身がどんな人なのか想像できるような写真。

私は最初、作品集に自分の写真を入れることに対して否定的でした。絵だけあればいい、と思っていたんです。気恥ずかしいから、というのが1番大きな理由。女優さんやモデルさんみたいに綺麗なわけではない容姿です。いろんな人突っ込まれそう、揶揄われそう…と心配になりました。こんな私を本の中に晒さない方がいいんじゃないかな…と不安がありました。試しにデザイナーさんが選んだ写真を入れて見せてくれた案を見たときも、カッと顔に血がのぼるような気持ちになりました。

でも結局、デザイナーさんのアドバイスにのっかり、写真を載せることにしました。何度も写真を見ているうちに考が変わりました。私の容姿を見てもらいたいわけでは全然ないのは変わりないんですけど…えっと、写真には「私の容姿、以上のもの」が写りこんでいるなぁと感じるようになったからです。

Rajaは彼女のウェブサイトの自己紹介でこう書いています。

“….Photography lets us capture those fleeting moments. The emotions, the things that once were, a sort of visual record.

Photography becomes a way of seeing. “

写真は「ものの見方」であり「感じ方」なんです。カメラを構えている人が何をどう見ていたのか、の視覚的な記録です。感情とか、その時そこにあったものとか…。

そう、だから私の作品集に載せる私の写真は、Rajaと田中江理ちゃん2人の写真家の見方なんです。2人のものの見方が、写真を通して見えてきます。

だから私が本に載せるのは、「私ではない人から見た、真子のしていること」なんです。つまり2人の視点。

そう納得して写真入りの本の原稿を見ると「なるほどなぁ。確かに写真あった方がいいなぁ。」という気持ちになってきました。

思い返せば、本づくりをはじめた初期の頃から、デザイナーさんから繰り返し提案され続けました。写真入れようって。私の想像してたよりもっとずっといっぱい写真が載りました。

恥ずかしい気持ちは消えませんが、それでも写真を入れてよかったなぁと今では思っています。

2人の写真家の共通点は、2人とも私の近くに居てくれ、一緒にたくさんの時間を過ごした人であるということ。この2人の視点を見てみる…という感じで、写真も楽しんでもらえたら嬉しいです。 

20220416

毎年花が咲くこと



 かなしいきもちに飲み込まれそうな時もある。苦しくて悪夢にうなされる夜もある。目覚めても、未来への不安が拭えない朝もある。


そんな時は少し歩くといい。ちょっと疲れるくらい身体をつかい、景色を眺める。同じ道を歩いても一週間前とは違う景色に出会い、季節の変化を感じられる。

今日は30分だけ森を散歩した。緑の枝の上に白い花が咲いていた。綺麗ねぇと顔を寄せると先客。オレンジ色の小さな蝶がとまっていた。逃げない蝶が鼻先15cmの距離にいて一緒に花を眺めてるような不思議な感覚になった。ようしもうちょっと、がんばるぞというきもちになって家に帰ってきた。

かなしいの沼に浸り憂いでいるだけで一日を終えたくない。少しでも前を向き、少しでもいい方向に向かっていくにはどうしたらいいだろうと模索して、試して、ジタバタしたいと思う。

ツノハウスは新聞をとっているのだけど、私は最近、新聞を読むのが辛くなってきている。あまりにかなしいニュースがあふれている。ガッカリ肩が落ちちゃうようなニュースもある。苦しい記事を載せたら、同じくらいの分量の気持ちいい記事も載せてくれたらいいのに…。

ラジオで国会答弁を聞いてみても非難し合うばっかりなやりとりが続くとげんなりとしてくる。ヤジがかぶるともう耳を塞ぎたくなってしまいパチっと電源を切る。国会答弁もしばらくきいていない。

間違いを指摘し非難するだけが、社会を心地よい方向に変える方法ではないはず。現状のいいところを見つけ認めて、大切に残していくことだって、変革と同じくらい大事なこと。なくなってから騒ぎ立て嘆ぎ誰かのせいにして責め立てる前に、まだそこにあるうちに気がついて大切にできないだろうか。

今ここに当たり前のようにしてある環境や仕組みのなかには、先人たちが苦労してつくりあげてくれたものもあり、それらを簡単に放り出したりしたくない。
平和な暮らしの貴重さ、ありがたさをヒシヒシと感じること。安易に戦いを煽らないこと。諍いをながびかせる行為に加担しないこと…。



当たり前のように毎年桜の花が咲くことの、すごさを忘れたくない。雪と氷に覆われた氷河期にこれから突如突入しちゃったら見られなくなるかもしれない景色をしっかり楽しみたい。

人と植物と動物と、今この世界の美しさを見つけ認めて、慈しむことを大事にしたい。(批判精神ももちろん同じくらいだいじ。注: 非難と批判は別もの)とそんなことを今日も考えています。

抽象的で散漫な文章でちょっと分かりにくい投稿になってしまいました。すみません…。えっと…今日書いた内容によく似たことを、具体的なエピソードをまじえながら、エッセイとして書き上げました。具体的な文章の方が読みやすい、はず。です。

悩みと、願い、祈りのような…切実なきもちをぎゅぎゅぎゅーっと詰め込んで文章を書きました。私のエッセイ集+作品集。つくるのに3年くらいかかっております。もうじき完成します。完成したらぜひ読んでください。

#最近本をつくっています

写真は3月の名古屋、竹林の向こうにしだれ梅