20191031

2019年の100日記,



朝。洗濯物を干したついでに庭の植物の朝陽にきらめくのを眺める。虫に喰われた葉っぱを持ち、チョンと切り落とされた花の穂は一部私の身体に入った印で、それでもスウィートバジルは生きて成長を続け、花弁を落とし種をこぼしている。ものすごいことだと、なんだか胸がいっぱいになる。


秋である。毎年感傷に浸りやすいけれど、今年はとくに。このところ心が弱々で、些細なことにきずつきかなしみ、ついでに記憶のなかから「かなしい」とタグづけられた引き出しを片っ端からあけて追体験してはへこんでいる。ここ数年分溜め込んできた傷が全て、秋風のもとに晒されているかのようだ。我が身に起こったことのみにあらず、新聞の端のニュースに愕然とし、人間というものの業の深さや愚かさを嘆くと共に、あぁ自分もその人間だと胸が苦しくなる。災害や気候変動から、氷河期や、気候がかわり絶滅した動物のさいごを想像したりしてしまうともう頭の中がグルングルンと揺れ出す。しまいには、網戸とガラス窓に挟まったカメムシが出口ではない方へと進んでいく様にも、もどかしさを覚え、「どうしてそんな身動きが取れない方向へと進んでいくんの、広い空は逆方向よ」とかなしくなる始末。


実際に自分の身に起こったことは小さなことがはじまりだったのに、昔の出来事や地球の反対側のこと、虫の動きなど、時間と空間と種属を越えてかなしいをつなぎ、堪えきれなくなってしまう。我ながら非常に厄介だ。


昨夜夕食を食べながら、「どうも最近、なんだか心が弱々で、すぐかなしくなるのよ」と上の話をひと通り夫に話してみた。カメムシのくだりを話したあたりで夫は吹き出して笑った。そうかカメムシ見ててもかなしくなっちゃうのか。そうよぉ、おおごとなのよ。「カメムシといえば…」と夫が話し出す。


「今日ねパオ(車)の後ろの窓ガラスとドアの間の小さな溝のようなところにね、カメムシが潜りこんでいたよ。」「まぁ、どうしてそんなところに…あったかかったのかな。最近さむくなってきたしね。」と答えながら私はハッとした。「もしかしたら、網戸のカメムシも、あたたかいところへ潜りこみたくて、風が避けられる狭いところへと進んでいったのかも!空の方向が分からなくなったんじゃなくて!」「もしかしたら、そうかもねぇ」ぬくぬくとあたたかなところにいる虫を想像したら、なんだか少し心があたたかくなり、昨夜はぐっすりと眠った。


ここ数年は、些細なことに目をとめる余裕がなかったのだとふと思う。鈍感でなければ乗り越えれないような波に次々と向かっていた船。ほんとに傷がつかない頑丈な船なら良いけど、ただ見ないふりをしていただけの場合、そのままにしておくと難破してしまう。


‪今は、水が漏れようとしている傷を見つけてはひとつひとつ塞いでいく作業をしているのかもしれない、と想像する。小さな傷は小さな気づきでふさがったりもする。「カメムシが風を避けて温まろうとしていたのかもしれない」とふと想像するとか、そういったことだ。‬


このところ心がとても繊細だ。些細なことをキッカケに大きく哀しんでしまう一方で、植物ひとつ眺めているだけで大きく感動してしまう。スウィートバジルの朝陽を浴びる様が神々しかった。虫と私に命を少し分けてくれて、なおかつ自身に種を実らせている。まったくほんとうに、たまらなく素敵ね、

川辺散歩 2019年の100日記

長い釣竿をひゅんひゅんひゅーーーんと振った三回目、広い川幅の中ほどに水飛沫があがる。クーイクイクーイと三回左手川下側に動かした釣竿は大きくしなり、ほどなくピチピチと跳ねる銀色の光を釣り上げる。流れるような動きで。まるでなんでもないことのように。同じ調子で二度、三度…魚ってそんなに簡単に釣れるものなの?と目を丸くしている間に、もう五匹目の魚が釣り上がる。岸辺では、七輪に火をおこして、魚を待っている人がいて、炭の香りが立ち上ってくる。



20191026

20191023

だいじなのは小さな物語の集積 2019年の100日記,


とても嬉しいことがあったので、聞いてください!GREEN HOUSEさんのインスタグラムで、わたし真子のことを素敵に紹介して下さいました。「コンセプトを根っこから知ろうとして下さる方。」「とても勉強熱心。」本当に嬉しく光栄なことです。そして、今回ご依頼してくださっている「絵」、きっと魅力的な「物語を織り込んだ絵」にしあがることでしょう!


お仕事として絵を描く時は、ケースバイケースで様々な方法があるのですが…
直接わたしに、絵のご依頼をしてくださった方に対しては、なるべく多くの時間を「情報を集め整理する」作業にあてるようにしています。そして、

「物語を集めて組み直し、一枚の絵にしていく」という方法で絵を描き上げます。興味深く、すごく楽しんで、その作業にあたらせてもらっています。 

物語は、現場に落ちていたり、その土地の地層の中に埋まっていたり、書物の中にあることもあれば、神社に残された言い伝えに姿を潜ませて、湧き水と一緒に吹き出してきたりします。そして何よりも、対象としてる場所、またはプロジェクトに関わっている一人一人の内側にそっと眠っていたりします。


(お仕事としての絵のご依頼には、もちろん時間にも予算にも限りがありますが、限りがあるからこそできることも、生まれるものもあるような気がしています。集中して感覚をそば立たせるには、むしろ時間制限があった方がうまくいきます。)


私に絵をご依頼してくださったミスズアグリさんでは何十人もの方が働いています。わたしはそのうちの数人の方にお会いし、それぞれの方と少しづつお話をさせてもらいました。社長さんはじめ、総務として働いている方や、飲食店のスタッフとして働いている方、店長になられる方、農場で、または肥料づくりの現場で働いている方に、働いていた方…。一人一人の心の中にある、ご自身の仕事への想いや、思い出、楽しんでいること、大切にしていること…そういった個人の物語を聞かせてもらいました。ひとつづつ、拾い集めてつなぎ合わせて織り込んでいくことが、「ひとつの会社全体をあらわす絵」を描くわたしなりの方法です。


一文でコンセプトを説明し、ターゲットとするお客さんの胸に刺さる「キャッチコピー」のような鋭さや、折り込みチラシのような明快な紙面をつくるのは、わたしにはちょっと苦手です。でも、キャッチーな言葉やロゴマークのうしろに回り、一見ぼやっと霞む背景となりながらも、小さな物語たちを紡ぎ、大きなイメージを描くことは得意かもしれません。物語は繋がりながら、お互いをうつし合い、キラキラ輝く、光の網になります。ジュウジュウタイモウのイメージです。


私の絵は、(腕のいいコピーライターさんと組まない限り)広告/広報という意味での即効性には少しかけるかもしれませんが、スルっと人々の意識の中にすべりこみ、時間をかけて効果を出してくれるんじゃないかな、と自分なりに思っています。いつの間に側にいて、ながく寄り添う絵。物語全体の持つイメージを好きになってくれるファンを増やしていくような。そういうお手伝いをする絵です。見た目は素朴で柔らかい物腰の絵ですが、そこに描かれている物語は「リアル」だから、それは実はとても「つよい」のです。ニセモノの、雰囲気だけ今っぽく仕立てたイメージは時間が経てばメッキが剥がれていきますが、本物は味わいを増していきます。

そんな絵を描くにあたり、だいじなのは小さな物語の集積です。あるひとつの企業さんのことを知ろうとした時に、私が気にするのは、企画書の中の企業のコンセプトを示す一文というよりも、(もちろんそれもだいじですけども)、動いている実際の現場の風景だったり、ひとりひとりがどのように働いているかだったりします。そういった話を集めたいなぁという時に、相手側の方に、「コンセプトを根っこから知ろうとして下さる方。」だと言っていただけたのなら、それは良い追い風に乗っていることになります。 ・


だからもう、きっといい絵になることでしょう。

ミスズアグリ さんの新店舗の壁画。
心地よいエネルギーがふつふつと湧いてきます。

makopenandpaperの壁画制作
あるいは
本気の空想スケッチ


*
最近本をつくっています
自分の制作や仕事の取り組み方の、言語化を試みているところです

20191021

民法をかじる 2019年の100日記

自分のお仕事以外の時間:お休みのプライベート時間も、我が家ツノハウスは、何故かいつもわりと忙しい。家のことしたり、お料理したり、の他に、いつも何かしら「課題」または「テーマ」があり、その2人の共通の壁に2人で向き合うということが繰り返されている。それが、結構楽しい。車探しを終えた今、ここ1カ月くらい、法律(民法)まわりのことがテーマだ。

「法律というものは、弱い立場の声の小さい人を守るためにあるもの」らしいという大前提を、はじめて意識した。たとえ契約書に書かれていてサインした内容でも、不当なものは無効になったり、取り消されたりする。実は、私たち、法律に守られているのだ。世の中、よっぽどわるいことはできないようになっているらしい。契約で決めたことでも、法律は乗り越える場合があるのだと、知らなかったし想像したこともなかった。

契約<法律
だとしても、契約は大事。ただ書き留めて文字になった情報で内容を確認し合うことはすごく大事なコミュニケーションの補助ツールだ。

「人は他人の話をほとんど聞いてない」「人は相手が頭の中で考えていることを知っているつもりになって決めつける」ことがよくあるし、話して側も「相手は分かってくれているはずと思い込む」ことは珍しくなく「言ったつもり、説明したつもりで伝わってないこと」も頻繁にある。コミュニケーションの齟齬は、珍しいことではなく、むしろハナから起こるものとして準備し対応した方がいいらしい。だから文字があることは、双方にとって良いことで、安心。
書き出してみると当たり前のこと、この年になってようやく気がつきました。(気がつけてよかった!)

とはいえ。良識と倫理観に則っとることが基本…という判断基準のあやふやなこと!ちょいちょいオカシインじゃないかと首を捻りたくなる法律も判例もあるし…守られてるからきっと大丈夫!って安心しきっちゃうよりも、少しだけ前のめりに「法律を知りに行く」ようにした方がいいかもしれない。

民法は特に、日々の暮らし周りのことだから、教養として少しかじっておくのは、決してマイナスにはならないだろう。ツノハウスの2人はどちらも読書好きなところが幸い。調べ物して、それぞれ発見したことを報告しあい、コーヒーでも飲みながらお喋りをする。これビックリなんだけど、どう思う?ねぇこの部分ちょっと意味がわからないんだけど、もし分かったら解説お願い。とか。

法律の世界をちょっと覗き見しながら、自分のお仕事に置き換えて、想像が進む。関わる人がみんなお互いに気持ちよく心地よく任務を遂行できるには…と。2012年まだ20代の頃に絵の仕事をはじめて、これまで1人で、その場その場でシャニムニにプロジェクトにあたってきたわけだけれど…いったん大きく見直す時期みたいです。30代半ばになったし、ちょうどよい。

ツノハウスに暮らし始めてから(結婚してから)、ツールとして使える知識量が増え、パワーアップしてる感がある。ありがたい。

1人会社員ごっこ 2019年の100日記,

先週は、私の作業が平日昼間に収まりきらず、ちょっと溢れてしまった。夕飯の後や週末も、自分のお仕事の方の作業をすることになってしまった。ザンギョーである。

(ちなみに私は、サラリーマンっぽい言葉を使いたがる傾向がある。シュッチョーとかカイギとかも好きな言葉だ。1人で仕事してると使わないから妙に憧れるのだ。ドウキにも憧れるが、誰を指してそう呼べるのか分からず使えないままだ。)

結婚して二人でに暮らすようになってから、毎日の生活の中に「仕事の時間」と「仕事以外の時間」という区別が生まれた。会社勤めの夫の休みに合わせて、私も一緒に休めるように、平日昼間に自分のお仕事の作業をするようにしている。平日夫が帰宅した後に、自分の仕事をしない。とすると、時間が限られるので結構効率よく頑張らないといけない!

月曜日。今日はなんだか忙しそうな夫、朝は早く、帰りも遅いらしい。会社のみなさんとコンシンカイだそうだ。(ちょっと羨ましい)。私も先週からずっと忙しかったから、ちょうどいい、お料理も家事もすっかりお休みさせてもらう1日にした。「よし今日はザンギョーだ!」と口に出して言ってみたらテンションが上がった。珍しく家で1人で夕飯、いやここはオフィスだ、オフィスの給湯室でちゃちゃっと用意出来るような夕飯を少しお腹に入れるくらいにしよう(想像上のOL生活)。わざわざコンビニに出かけてカップラーメンとオニギリを買ってみた。カップラーメンだなんてすごく久しぶりに食べる。何年ぶりくらいか!なんだか不良な食事だわ。くふふ

1人会社員ごっこを堪能中である。



20191018

秋霖 2019年の100日記,

秋霖。今日は雑誌ウェブサイトの挿し絵など、いくつか描きあげる日。朝から、屋根にあたる雨の音を聞き、引きこもっている。旧暦では重陽の節供の時期、スーパーの切り花コーナー、菊の花ならぶ中にアリストロメリアを見つけた。タスマニアのカフェのテーブルによく飾られていて、何度もスケッチした花。懐かしい気持ちになり、食材と一緒にひと枝購入。お仕事用の絵に入る前に、手慣らし、さらさらさら、と。やっぱりきもちい。この植物は、描くととても気持ちがいい。

20191017

最近本を作っています。トゲトゲの文章と格闘中。 2019年の100日記

「最近本を作っています」
「from making a book to letting people read it, 本を作ってから読み手に届けるまで,」の記録


どうも私は、生真面目にしか文章を書けないようで、ユーモアが足りてないよなぁ…と、悩んでいたところです。

「ポジティブでユーモラスな太宰治(の世界)があってさ。人間失格、とか、斜陽、じゃない太宰治。それで、やっぱり言葉は、もう、とても美しくて…。」と聞いて、太宰治の文章を読みたい欲求が高まっている真子です。こんばんは。



八ヶ岳倶楽部を再訪。テラス席にイガグリが落ちていました。トゲトゲでチクチク。私の文章はまさに、こんな感じでトゲトゲしていたように思います。


「これまで自分が作り出してきたもの、お仕事についてまとめた本を作りたい」と本格的に動きはじめたのは6月。編集者である友人(アズアズと呼んでいる)の提案により、何本かの文章を自分で書いてみることになりました。

とはいえ、絵ばかり描いているここ数年です、いざ文章を書き出してみると、なかなかうまく言葉が出てきません。随分と苦戦しました。線をコントロールすることに比べ、言葉を制御することの難しさといったら!なかなか波に乗れない私に、アズアズは何度もお題を投げかけてくれました。例えば、それは「働く」ということ。「真子ちゃんにとって、働くってどういうこと?書いてみて。読んでみたい。」


はじめて書いた「働く」をテーマにした文章は、今になって思うとずいぶんヒドイ出来でした。「トゲトゲでチクチクのまさにイガグリのまま、読者の懐に飛び込もうと無茶している」ような…。働くということを考えたときに、真っ先に過去の失敗や、ケチョンケチョンにうまくいかなかったことや、コテンパンにされたことを思い出し身体が硬直してしまうように文章も硬直してしまったのです。自分で書きながら、「なんてツマラナイ文章なんだろう、読者の方は読んで楽しいかしら…これじゃ全然楽しめないよね…」とテンションが下がってしましました。


毎週月曜の朝に本づくりのミーティングを重ねてきました。ツマラナイ文章だと自分で思った文章は、他の人が読んでもツマラナイものだったみたい。しゅーんとなっている私に編集者アズアズの熱い言葉が降りそそぎます。「これまでのお仕事で、ほんとうに楽しかった瞬間を思い出して!一緒にお仕事をした人や、クライアントさんや、関わったいろんな人で、ありがとうを伝えたい人の顔を思い出して!ありがとうを手渡すつもりで書いてみて…」


編集者のアズアズは、勢いよく喋りながらも、私のイガグリの殻のような鎧を砕いてくれました。働く中で楽しかったこと、ありがとうと伝えたいこと…自分の内側の記憶の中を探ります。トゲトゲの奥には美味しそうなツヤツヤの栗のような、宝物のような言葉が出てきました。トラウマ的経験のかげに隠れていたけど、確かに確かにしあわせな瞬間や、心があたたかくなった出来事、たくさんありました。自分でも驚くような、新たな発見もありました。


毎週毎週の本づくりミーティングの中で、イガグリ真子の文章を、つるんと剥いて中身を取り出す作業に、根気よく付き合ってくれたのです。

そうこうしていたら、栗のような素材がコロコロといくつか集まってきました。さてここから、さらに、美味しくいただけるかたちにお料理をしていく時間です。ふっくらと蒸しあげて、塩をパラリ。あるいは焼いて、甘みを引き出して、それとも縄文土器で煮込んで原始的にいただくか、もしくはエレガントなモンブランへと変えて…。さて、どのように料理いたしましょう。

まだまだ稚拙な私の文章、いくらでも磨く余地がありそうです。
一旦手を止めて、太宰治のユーモラスな短編といわるものを読んでみますかね。。

20191016

最近本をつくっています 2019年の100日記,



朝7時、いつもの喫茶店で、「ホット(コーヒー)」を注文し、いつも通り「フレッシュ(ミルク)無し」で、バタートーストと、ゆでタマゴがテーブルにならぶ。食べる順番も決まっている。まずはタマゴに塩をひとふり。(かけすぎるなと、ばぁさんが口うるさいから、ひとふりで我慢する。)それから、トーストをひとくち齧ると、だいたい満たされた気持ちになる。さぁさ、今日の仕事に取り掛かろう…。老眼鏡をかけて、今日の一冊を取り出す。朝の読書を日課にしたのは、定年する前の年からだから…もう23年か。市の図書館に行って気になる本を探すようにしている。細かい字はダメだ、読めたもんじゃない。いつも本を一冊と手帳を一冊持ち歩いている。最近、文字を追っていたはずが、ついボンヤリして眠くなってしまうことがある。困ったものだ。それで、読んで気に入った文章を手帳に書き写すことにしたんだ。1年の終わりに書きためた言葉をまとめて、孫に渡すことにしている。あいつももっと本を読むといいんだが…。さぁ、コーヒーが冷え切らないうちに今日の作業分を追えなくてはならない。アァイソガシイ…。


そんな風に、朝の喫茶店で一章づつ読んでもらえるような本を作りたい。私の空想。

その年代の人が手に取ってくれるのはどんな本だろうか。タイトルは?表紙は?どこに置いておけばいいのか。やっぱり図書館かな。喫茶店にも置いてもらえるといい。おじぃちゃんから孫へ(働きはじめたばかりの忙しくしている孫へ)、手渡したくなる本であってほしい。「いま仕事が忙しくて、正直、本とか読んでる時間ないんだよ、じぃちゃん。」ってめんどくさそうに答えたその人が、それでも手にしてみたら気になって、とりあえず自分の鞄に滑り込ませるような。そんな本がいい。70-80代と、20代の両方にささるような。そんな本。

#最近本をつくっています

「from making a book to letting people read it, 本を作ってから読み手に届けるまで,」の記録

20191015

だいたいほとんどの人が、他人の話を聞いてない。2019年の100日記

【話を聞いてもらいたい欲求と、空想スケッチのこと】

だいたいほとんどの人が、他人の話を聞いてない。

誰かを責めているわけではない。省みてみると、自分だってそうだ。他人に真剣に向き合って、考えていることを聞くだなんて、すごく大変なことだ。

目の前の人が何を考えているのか聞こうとしない、その理由のひとつは、「目の前の人の考えをもう既に知っている、と思い込んでいる」からではないだろうか。そして「自分の中にある想像上の相手のイメージに向かって、自分の意見を言う」。そんなシーンはよく見かける。目の前に存在しているはずの人自体は蔑ろにされていることになるので、それを感じ取ると、聞いてもらえない側としてはモヤモヤしたりする。

「どうして私の話を聞いてくれないんだろう!聞かないで、決めつけて、挙句勝手なアドバイスを始める!」とイライラした事があるのは、私だけではないはずだ。アドバイスはだいたい的外れで役に立たない、なぜなら、そもそもの問題点がズレているし、状況も把握されていない(状況を説明する前にアドバイスがはじまってしまう)。職業として、お客さんのリクエストを聞きますよと言っている人でさえ、お客さんの話をあまり聞かないことにビックリしたこともあった。だけど、どうやらそういうものー「人は人の話をほとんど聞かない」ものだと、ふと気がついて、自分に言い聞かせるようになったら、少しだけ楽にその場をやり過ごせるようになった。

ただ「自分だって、たぶん他人の話を聞いてない」って気づいてからは、ふとした時に喉の奥の辺がキュっとすぼまり、ザワザワした気持ちになるようになった。とてもじゃないけど「他人にアドバイス」なんてできない。自分もその人のことじゅうぶんに分かっていないだろうから。自分が人にアレコレ言われるのがきらいだから、というのもあいまって…言われた時の嫌な気分を思い出すと何も喋れなくなる。

他人が大事そうに行っている物事に対して口出したりアドバイスしたりしなくなった。同時に、大事な話は滅多に他人に話さなくなった。(聞いてもらえなくてガッカリすることがほとんどだから)。
摩擦が少なくなって楽になるかと思えば、なんだか寂しさが募った。 ・


さて、私は「空想スケッチ」という名の絵を描くサービスをしている。「将来ひらいてみたいお店や、暮らしてみたい家のイメージ。理想のデートシーンなど。あなたの想像する世界、夢の話を聞かせてください。絵に描き出します」とうたっている。

「空想スケッチ」の仕事は、私の「聞く」という行為のトレーニングの場にもなっている。空想スケッチをしている間は、意識して「聞く」ようにしている。目の前の人が何を考えているのだろう、何を想像しているのだろうということに、神経を集中させるのだ。話を聞いて、ふんふんなるほどねって納得し合ったことでも、聞きだしたイメージを私が絵に描き出した時点で、相手から「ソレ違う、そうじゃない」と指摘が入ることがよくある。よっぽどお互い口頭で盛り上がり同意した内容でも、それぞれの頭の中にあったイメージは違ったりするのだ。「私もよっぽど他人の話を聞き出せてない」と毎回実感する。絵に描き出すことで、イメージが違っていたことに気がつくことができるのも、空想スケッチの面白い点だ。

時間制限と報酬ありきでないととてもやってられないけれど、「空想スケッチ」の時間だけは私の「聞く」に徹するスイッチを入れる。

「聞いてもらえないストレス」「自分のことを分かろうとしてもらえない哀しさ」は世の中に溢れているんだろうなぁ、と思ったりする。

ふとした時、満員電車の中や、喫茶店で、周りを見渡した時に、全く面識のないさまざまな人をぼんやり眺め「この人達は、話を聞いてもらえているだろうか」という質問が心に浮かぶ。「今、この人は一体何を大事に思っているだろうなぁ。」と考えたりする。愚痴や悩みや不満の殻を破って、思考を押し分けていった先の心の奥の方に、きっと何かしら暖かい、大事なものがあるに違いない(と私は思い込んでいる)。その、それぞれの「大事な何か」は、「じゅうぶんに大切に扱われているだろうか?」自分自身が大切に扱っているのか、他人にも大切に扱ってもらっているのか。「誰かに、話した時に、聞いてもらえているだろうか?」

愚痴や悩みや不満を聞く気にはなれないけど、何か大事にしている思いがあるなら、ソレを諦めたり潰したりしちゃう前に、聞かせてほしいなと思う。ただし時間制限ありの、お仕事として報酬をもらっての場合に限りますが。

この冬は「空想スケッチ」強化シーズンにしようかなと考え中。

20191010

TEMPURA 天ぷら 2019年の100日記,

カラッと揚がった天ぷらサクサク、ザクッ、じゅうぅぅ

I made illustration menu for a soba noodles restaurant “KUKURI” located near Toyota stadium where ‘Rugby World Cup 2019’ is now going on.

愛知県豊田市「手打ち蕎麦 くくり」メニューを作りました。



ドローイングと民法の言葉の共通項 2019年の100日記,



最近ちょこっと、民法のお勉強をしています。法律の独特な言葉の言い回しに、初めはちょっとビビっていましたが…だんだんと見慣れてきた(!?)ようにも感じています。契約の成立要件、有効要件。債務者、債権者。制限行為能力者。債務の履行、不履行。取り消し、無効、追認。


さて、写真は「あいちトリエンナーレ2019」より。ペンドローイングを見つけました。制御された静かな線という遠くから見た印象と対照的に、近づいて見ると勢いとスピード感を感じます。手で描いたんだなっていう生々しさを感じます。描いている時のペンの動きと速さを想像してみると、親しみがわいてきます。おもしろい。

このペンドローイングの楽しみ方と、民法の言葉に、共通する部分を見つけた気がして1人膝を打っています

20191008

森の中の図形 2019年の100日記,



photo by @horafuki_masaki 

森の中の図形。渦巻き。


綺麗なものを見つける天才から届いた写真。わお、と吸い込まれるように見入ってしまった。たぶん瞳孔が開いていたんじゃないかな。

20191007

白イチジクとチーズとハーブ 2019年の100日記,

いただきものの白イチジク×カマンベールチーズ×庭から摘み立てグルメバジリコ 

イチジクと蜂蜜のとろんと甘いのを、岩塩×スリランカ胡椒でしめて、フレッシュハーブで後味サッパリ。素晴らしいチームワークに脱帽です。





シュッチョーから帰ってきたら、庭のハーブ達がますます元気にワサワサしげっていた。生命力の強さ!

久しぶりにお会いした大学の先輩夫婦から、ご実家で採れたというイチジクをたくさんいただきました。皮が柔らかく、小ぶりな白いイチジク!先日松本で食べたブルーチーズのトーストとイチジクを思い出して、じゅるり。よし、蜂蜜チーズトーストのイチジク乗せつくろう。イチジクとハーブでお昼ご飯としましょう!

近所のスーパーにブルーチーズが見当たらず、カマンベールに。薄くスライスして焼いてみました(タスマニア彷彿とさせる!)。マイルドに柔らかな味わい。ふかふかトロトロの中に歯ごたえが欲しいね、とアーモンドを散らして、それからビーツのピクルス(こないだ松本に滞在中アルプス市場で買ったビーツ、漬けてみました)を。チーズの底にはたっぷりザワークラウト。サッパリ爽やか。イチジク並べて、蜂蜜とろんとかけて、ピンク色の岩塩ガリガリ削って、胡椒ピリっときかせて、ハーブと一緒にいただきます。夫のお弁当にと朝焼いた厚焼き卵の切れ端も一緒に。


お皿(兼まな板)は 、家具職人さん(@blockatelier さん)の作る木の小物。トーストの日はほぼこちら。愛用。テンションが上がります。