20210630

いつか親になった時の為のメモ  自戒(過去の自分からの厳しい言葉)

 *いつか自分が親となり、子育ての忙しさやプレッシャーでいっぱいいっぱいになった時は、「自分にとって優しい言葉/甘い言葉」しか耳に入らなくなる時がくるかもしれません。そんな時でも、「過去の自分からの言葉」だったらどんなに厳しくても無視するわけにはいかないでしょう。たぶん。これは、未来の自分のためのメモです。


メッセージ

「あなた(私)はよくやっている、よくがんばっている。自分(私)のことも大切にしてあげてね。パートナーのことも大切に、親のことも大切にしてね。まわりのあらゆる人に対しても、敬意をはらうことを忘れないで。

きっとすごく大変で、いっぱいいっぱいだろうけど、それでも、自分だけが世界で一番大変なんだと、勘違いしないように。今、とても大変で周りに気なんて使えないと思っているかもしれないけど、ちょっと待って、大丈夫、あなた(私)ならできるはず。人間修行の時期だと思って、簡単に投げ出さないで。全ての行動は自分に返ってくるから、今が踏ん張っておけば、きっと後の人生が豊かになるよ。

子どもには、あなたが大切な存在であるということを、心から伝えたい。同時に、あなたと同じように世の中の全ての人が大切に扱われるべき存在であるということも、一緒に伝えたい。

そして、今この時間をめいっぱい楽しんで。いつも心にセンス・オブ・ワンダーを。」


◯自分の子どもも大切、自分自身も大切、一緒に子育てしてくれる夫も大切、子どもを可愛がってくれる両親(子どもにとっての祖父母)も大切、同じ時代を生きる全ての人が大切な存在 だという意識を忘れないでいたい。

×どんなに自分がつらくても、超えてはならない線がある。他者の存在/尊厳を踏み躙るようなことはしてはならない。横暴な振る舞いをしないこと。


具体的に↓

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全ての人に対して

×「暴言、罵詈雑言、人を罵る言葉を使わない。子どもに対して、夫に対して、家族に対して。全ての人に対して。」

どんなに自分がつらくても、それを理由に他の人に汚い言葉を投げつけてはいけない。言った一瞬自分がスッキリするかもしれないが、後で罪悪感に際悩まされるだろう。仮に言い放ってスッキリし自分では忘れたとしても、言われた方は傷つき、ずっと覚えている(可能性がある)。将来、その言葉は何らかのかたちで、自分に返ってくる。

こらえよ。こらえてください。未来の私。

◯どうしてもいやな言葉が口から出そうになった時は、何か違う言葉に無理矢理にでも変換して口から出すように。なんだろう、「寿限無寿限無五劫の擦り切れ…」とか?…ちょっとコワイ人だと思われるかもしれないけど、誰かを傷つけるよりマシでしょう。

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子どもに対して

×「SNSなどネット上に、子どもが特定できる状態で(子どもの顔や名前がわかる状態。もしくは親自身が誰なのかわかる状態)で、子どもの存在や人格を否定するような言葉を書いてはいけない。(子どもをかわいく思えない/愛せない/産まなきゃよかった等。絶対に書いてはいけない。ダメ。)」

いつか子どもがそれを見つけたら/人伝てに知ったら、すごくつらいおもいをするから。

幼い子どもには対抗方法がない状態での、一方的な精神攻撃になる。子どもに対してフェアではない。もしそれでも書くなら、いつか大人になった子どもに同じような精神攻撃(例えば「毒親」というタイトルで手記を出版されるなど)を受ける覚悟を持つこと。そんなツライ未来はできるだけ避けたいよね‥。

踏みとどまって。

もしかしたら、すごくすごく大変になって、自分の時間がなくなり体力も限界で心が擦り切れそうになって、ふと心の奥にそんな気持ちが湧いてくることだってあるかもしれない。でもそれは、心の中にとどめておこう。文字にして書き出し公開してはいけない。目に見える言葉、記録に残る言葉、(誰かに記録に残されてしまうかもしれない言葉)には慎重になろう。

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子どもに対して

×「年賀状や子どものプライベート(趣味趣向や性格について)を書かない、SNS等に垂れ流さない」

(*子ども心を忘れていない今の私にとって、嫌だと思っていることのメモです。世の親御さんたちを非難する目的は全くなく、ただ、自分のきもちを忘れたくないだけのメモです。)

子どもは親の持ち物じゃない。親は子どもとは別の人格を持った、別の人間です。一人の人間として尊重したいです。「この子はこんな性格の子で…」と書きたくなってしまう時があったら、思い出して欲しいのです、子どもが本当は何を考えていて、何を感じているのか親は分かりきっているわけではないということを。決めつけて、公表/発信しないで。せめて、子どもが対等な立場/力/技術を身につけるまでは…。

夫にSNSで私のことを書かれても構わないのは、私も夫と同じように発信することができる対等な立場だから。それから、夫が書く内容について信頼しているから。もし嫌な内容を書かれることがあったら(今までそんなことはなかったけれど)修正してくれるよう申し出て交渉することができるから許せる行為です。自分が幼い子どもで、相手が親で、自分の預かりしれないところで自分のことを書かれていたら、まずそれだけですごく嫌だし、そこに対してどのような手段を持って対抗したらいいのか分からないのがつらいところです(私の場合)。一方的なのがいやなんでしょうね。

(親と子どものパワーバランスは、不均衡です。親の方がどうしたって権力を持っている。親にそっぽむかれたら、生命の維持が難しくなってしまう弱い立場です。それを忘れることのないようにしたいです。)

◯子どもが生活の全て、になってしまうような時期は、どうしても子どものことを発信したくなるかもしれませんね…どうしても子どもとの日々について発信したくなったら、子どもとのやりとりを通して「自分の中にうまれた感情や気づき」に焦点を当てて書くようにしたらどうでしょう。書くのはあくまで自分の物語です。そして、子どもがのちのち読んだ時に、嫌なきもちになるようなことは書かないように気をつけたいです。

(*矛盾しているようですが、「他人の子育てエッセイ/投稿」を読むのは好きなんですよね。ほっこり心あたたまってしまうんです。自分が子ども本人だったら嫌だなぁと思う気持ちはありつつ、第三者目線で読み物として楽しませてもらっている毎日です。やっぱり矛盾してるな…)


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パートナーに対して

×「子育て時のパートナーの動きについて愚痴や不満をSNSに書かない。他人に喋りまくらない。」

自分がそうされたら嫌だから。という理由が第一。私も書かないし言わないから、あなたもしないでね、ということ。お互いに敬意を持って、接しあいたい。

それから、よい効果が全くない、ように思われます。他人やネットにぶちまけて、スッキリした気になっても現状は解決に向かわないどころか、パートナーとの信頼関係は悪化してしまう可能性もある。

さらに、汚い言葉、だれかを責める言葉を発している時、自分が一番近くでその言葉をきくことになり、自分への悪影響もありそう。よくない。

◯「本人に、面と向かって、伝えよう。感情的になりすぎず、なるべく具体的に、丁寧に説明し、問題解決を目指し一緒に考えよう」

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家族や周囲の人に対して

×「周囲の人に無尽蔵に甘えすぎない。親をはじめ、他者の時間、エネルギー、お金を一方的に搾取するようなことをしてはいけない。」

親や親族、近しい人などは、きっと子育てに協力してくれることでしょう。その好意に甘えすぎて、当然のようにズケズケと他者の人生を奪いとるようなことをしてはいけません。感謝の気持ちを忘れないで。

「子育ては、みんなでするもの。無理しないで、周りの人に甘えて。」という、母親を気遣う優しい言葉があちこちにあります。きっと疲れた身体に沁み入る言葉でしょう。もちろん無理は禁物(後で下に書きます)ですが、限度を超えて他人に子育ての手伝いを強要してはダメです。他人の人生を尊重して扱ってあげられない姿は醜いものです。その姿を子どもが見ています、見せたくないですね。

◯簡単でもいいので、日記をつけるようにしましょう。誰かが自分や子どもにしてくれたことを言葉として書き出すのです。感想でなく事実を書き残せばじゅうぶんです。(◯月◯日何時から何時まで子どもを預かってもらい、食事を食べさせてもらった、など。)もしかしたら、自分が体力的にギリギリいっぱいの時期は本当に、他者の好意に甘える以外にどうしようもなく、感謝の気持ちを持つ余裕すらないかもしれませんが…せめて事実を記録に残すことで、数年後に余裕ができた時に振り返り、思い切りお礼ができるかもしれません。記録大事です。

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周囲の人に対して

×「お子様ご遠慮ください、とアナウンスしているお店や催し物に、子どもを連れて行ってはいけません。店主/主催者の希望/要望を大事に扱って下さい。」

お子様ご遠慮下さいと言うからには、そこには何か理由があるはずです。世の中には、小さな子どもの甲高い声で、心が不穏になってしまいパニックになってしまうタイプの人もいます。持って生まれた障がいとして、苦しみながらその性質を抱えている人がいるようなのです。お子さんを亡くされて辛い思いをしている人もいます。他にも自分には預かりしれない様々な事情があることでしょう。そういった方々が、心穏やかに過ごすことができる場所、として、店主/主催者は子どもお断りの場を設けているかもしれないのです。

もちろん、子どもは大事にされる存在ですし、子どもを育てているお母さんも大事にされるべき存在です。同じように、障がいを抱えて生きている人も、かなしみを抱えて生きている人も大事にされるべき存在だと私は思っています。どんなひとも、社会に居場所があると感じられるように、異なった性質の場がたくさん社会に散らばっているといいなぁと思っています。お子様ご遠慮くださいの場を、そのまま守ることは、子どもにとっても暮らしやすい未来を作ることにもつながるはずです。

「子どもはどこでも大事にされるべきだ!子どもが居てはいけない場所を作るなんてけしからん!」と無理矢理子ども連れでそういった場に乗り込んでいくなんで、言語道断です。正義を振りかざしているようにみえて、その実、自分勝手で他人のことを思いやれない行動でしかありません。(私がイベント主催者だったら、そんな人はブラックリストにいれ出禁にします。)

でも、これ自分が子連れ側の立場になったら、違う感覚になるのかな。それでも、無理矢理子どもNGの場所に子ども連れていくようなことしてたら、信頼を失うのは私、居場所がなくなるのも私。やっぱりここは一線超えないようにしなくちゃ‥。

◯子ども連れでも安心して楽しめるお店やイベントが、足りてない!と感じることがあったら、自分でそういう場をつくりましょう。できるはずです、私なら。

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自分に対して

×「上に書いたような、他者への配慮を持つ余裕がなくなるまで、自分を追い込んではいけません。超えてはいけない一線を踏み越えないように、自分の心に少しの余裕を持てるように工夫しましょ。リラックスする時間、自分の心に手をかける時間をなんとか捻出して下さい。」

頑張りすぎて心と身体を壊しても、だれも褒めてはくれません。それどころか他人を傷つけてしまうことがあります。大事にしたい子どもや、身近な家族を傷つけるようなことになったら、つらすぎます。その為にも、自分自身を大事にすることは、かなり優先順位の高いことです。無理そうだと感じたら、HELPと声を出しましょう。いろんな人に相談しましょう。なんとかつらい現状を打破する方法を探りましょう(他者を蔑ろにしない方法で)。

◯デザインは、問題解決の手段のひとつだと学びました。私が学び、仕事としてきたことです。様々な知識と経験を総動員させましょう。きっときっと、なにか方法があるはず。

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自分に対して

◯「一人の人間が育っていく様子をそばで見られるなんて、とても貴重な経験です。目を見張るような驚きがあふれていることでしょう。いつだって、ワクワクして楽しむ心を忘れないで。」



2021年6月30日 のメモ








20210628

ひょいひょいひょいっと仕事してるように見えるらしい メモ

よく言われることなんですけども、ちょっとモヤッとしていることがありましてですね。ちょこっとだけメモしておきます。

「絵が描けるなんてうらやましい。持って生まれた才能だね!」に並べて

 (地元にいると)よく言われる「〇〇大学/〇〇高校なんて、すごく頑張って勉強したんだね。」がいつも腑に落ちず、ちょっとモヤっとしてしています。ほんとによく言われることで、まぁだいたい、いつも聞き流しているんですけども


何といいますか、

「私の仕事って、軽く見られてるなー(生まれ持ったものだけでひょいひょい仕事してるって思われてるんだなぁ)」と言うのと

「日本における受験勉強って実態以上に高い位置に置かれてるなー」

って言うのをぼんやりと感じるわけです。


だって、実際そんなに受験勉強頑張ったわけではないですもん。絵を描く勉強と練習に比べれば受験勉強なんて全然たいしたことしてない。別にそこまで偏差値に高い大学に入ったとも思ってないですし…大学で勉強した内容に関してはすごくすごく充実したものでしたが、受験時にフォーカスされるとキョトンとしてしまいます。特に留学した大学院での第二言語での勉強はなかなか大変だったけど、それでも自分の今の仕事にかける学び時間に比べれば全然少ないです。


私の日常は、時間もエネルギーもお仕事にずいぶん注いで過ごしてきました。知識を仕入れる勉強も、試行錯誤も、練習、トレーニングも、工夫も、トータルしたら、受験勉強の何十倍になっていることでしょう。それでもまだまだ足りないと思っていて、もっといい絵を描けるようになりたいな、って試行錯誤を続けています。もっといい仕事できるようになりたい。


別に褒めて欲しいわけでないし、がんばってることを認めて欲しいなんて子どもじみたことを言いたいわけでもないんです。だからいつも反論しないんですけども。

ただ、何の意図があり、どう言う目的で「才能があってうらやましい」って言うんだろうか?とよく考えてしまいますね。


とりあえず「もって生まれたものだけに頼ってて、まだまだ努力が足りないから、もっと頑張れよ」っていう指摘をうけたんだな、と脳内変換して、精進する力にすることにしています。

で、練習積めば積むほど、手がさらさら動くようになっていくので、ますます、簡単にひょいひょいやっているように見えちゃうんでしょうね。




ひょいひょい適当にしてそうって思われがちなところがあるかなぁ、

というところで、

他にもう一件よく言われる言葉があります。

「俺は、真子ちゃんみたいに感覚だけでやってないから。ひとつひとつ論理的に仕事してるから。」って言うのがあるんですよ。

年上の男性から言われることが多いんです。で、へぇぇって思って話を聞くんですが、その方の仕事の方法が理論的に素晴らしく組み上がっているかという別にそうでもない。色彩論を勉強し始めた大学一年生が、覚えたての聞き齧りの理論を右から左へ伝言している程度なんですよね。勉強量も浅いようにしか感じられないし、自分の中で練ったり醗酵させたりしてるわけでもない知識を、どうしてそんなに得意げに語れるのかしら…語ってもいいけど私を引き合いに出して下げるようなこと言わなくてもいいのにな‥とモヤっとするんです。


心の中で「同じ土俵にのらない、言い返さない、静まれ私の心」と抑えてます。ちなみに、過去にそういった相手に対し、本気モードで制作についての話をしたところ「かわいくない」って嫌がられることが何度かありコリました。会話を長引かせても面白いことないから早く終わらせよう」です。俺論理的ですげぇんだお前ダメだな話をする人は受け流すにかぎります。


…ちょっと毒づきました。数年分たまってしまった毒がでてしまいました。


研究者の方が論文発表などをする時

「私の勉強不足かもしれないんですけども…」「素人質問で申し訳ないですが」ではじめる質問が一番こわいと伺ったことがあります。だいたいそのあと、めちゃくちゃ専門的で、鋭いツッコミがくるそうです。思慮深い専門家の方ほど、謙虚で、落ち着いたを纏われているのかもしれませんね。私もそういう人を目指そう。


明日もひょうひょうと、ひょいひょいっとした感じでやって行こうと思ってます。



20210623

kids 泣いている小学生/中学生を見かけたら?親でもない第三者に何ができる?

小学生たちが列をなし通学している朝の風景の中

小さな男の子が、肩を落とし、しょぼしょぼと歩いているのを見た。

ふと顔をあげたその子の瞳から涙がポロポロ溢れるのを見てしまい、

私は胸がキリキリと締め付けられるような苦しさを覚え、居ても立ってもいられない気持ちになった。

なぜ、その子が泣いているのかの事情を、私は全く知らないけれど

ただ一人の小さな男の子が、身体全体をかなしい気持ちに浸している、という状態であるというそれだけでじゅうぶん大きな出来事で、私もとてもかなしくなり、自分の目にも涙が浮かんできた。

朝、家で親と揉めたのか、これから向かう学校が嫌な場所で行きたくなくて泣いているのか、同じ学校へと向かう友達たちと喧嘩したのか‥。どんな事情にせよ、そんなにまで涙を流してかなしみながら通学することないだろうに‥どうぞ、世の中の子ども達には、できるだけ幸せな時間を過ごしてほしい。

小さな肩に大きなランドセルを背負っていたその子は小学一年生。親でもなく、担任の先生でもない私にできることは何かあるのだろうか?



ずっと心に残っている後悔がある。

私がまだ大学生だった頃のこと。旅先で出会った女子中学生が、身体全体から憔悴しきった雰囲気を漂わせていた。どうにも放っておけなくて声をかけた。面識もなく、名前も知らない彼女だったが、話をきいた。

「女はいつも男に殴られるから嫌だ。」

と言う彼女の言葉に、私はびっくりした。私も女だが、誰からも殴られたことなく育ってきた。自分の知らない世界だった。

彼女は父親に殴られた、と言った。彼女の母親も父親に殴られている、と言った。女はそうやって、男に殴られる存在でしょう、とさも当然のことのように話す中学生の女の子。私は衝撃を受け、動揺し、あわあわしながら、まくしたてるように喋った。びっくりして早口になってしまった。

「それはおかしいよ!ぜんぜん、おかしいよ!殴られていい人なんていないよ!我慢しなくていいんだよ。殴られるような場所からは、逃げ出していいんだよ。痛かったね、こわかったね‥。殴られない場所があるし、あなたを殴らず守ってくれる人もいるよ、守ってもらえる場所がどこかにあるよ。世の中いろんな人がいて、いろんな場所があるんだよ。

殴るなんてダメだよ!男でも女でも人を殴っちゃだめだし、殴られていい人なんていないよ。みんなみんな大事に扱われていいんだよ。」

次の日も同じ場所に居ることを伝え彼女と別れた。私の心臓はドキンドキンとしていた。

翌日、彼女ではなく、彼女の母親だという女性がやって来た。

「うちの娘に余計なこと言ったのはアンタ?変なこと言うのやめてくれる?何も知らないくせに。人の家庭のことに口出すんジャナイヨ。」

その女性は私を一喝すると去っていった。厳しい声でどなられた私は、しばし呆然としていた。

確かに私は家庭の事情を一切しらない。家族でもないし、学校の先生でもないし、権威ある専門家でもなく、ただの旅する大学生が、やんややんやと家庭のことに口出したらそりゃ不愉快に感じるかもしれない。でも中学生の女の子が一人、ひどく弱っているように見えたんだもの、それだけでお節介をやく理由には十分だと、心の中で反発した。

もちろん中学生の女の子が嘘をついて大袈裟なことを言っていたという可能性もなくはないが、そんなのしかるべき機関に調査してもらい嘘だと分かったら、嘘でよかったと思えばいいだけだ。ほんとに殴られてたとしたら、躊躇してる場合じゃない。

それで、あの中学生の子はどうなったんだろう?逃げ出そうとしたのかな?それとも殴る父親に反抗したのかな?逃げられたのかな?反発したことで、もっとひどく殴られたりしていたらどうしよう…?

私はこわくなった。

昨日話を聞いた段階で、「助けて守ってくれそうな場所/人」に彼女をつないであげられればよかったんだ、と自分の役立たずさにかなしくなった。具体的にどんな機関があるどんなサービスがあるのか知識がなかったけれど、その場で調べればよかったんだ。私はただただ動揺して、何の役にもたたないアドバイスを口にしただけだ。自分の愚かさに腹が立った。何もできなかった。余計なことを言って、よけい事態を悪化させたかもしれない‥?

でも、あんなに若い子が、親のもとで苦しいおもいをしているかと思うと、耐えられない気持ちになる。


力を持つものは、自分がもっている力に対して無自覚になりがちなところがあるように思う。親は子どもに対して圧倒的に力をもっている。経済的に、身体的に、子どもの生命与奪は親の手に握られてしまっている‥ようなところがある。一人前になるまで、子どもは、親の庇護なしに生きていくのは難しく、親の支配下から抜け出すことは非常に困難だ。すごく不均衡な力のもとで、精一杯生きているのが子どもだ、とそんな風に私は感じている。

親は親で一所懸命で、それぞれの正義があり、それぞれ事情があるのだろうけれど、それでも、どんな場合でも、子どもの生命と心を大切に扱わねばならない。いのちは、大事だ。尊厳も大事だ。

対等に親と対峙することがかなわない状態の子どもが

苦しんでいたり、悲しんでいたりする場合は、その子を救う為に、第三者の介入が必要になることもあるはずだと思う。



数ヶ月前のニュースで、5歳の男の子が餓死したという、あまりにかなしい事件を知った。母親が、母親の友人に洗脳されたような状態で言いなりになっており、子どもに食事を与えなかったという。あまりにつらい事件だ。そんなことあってはいけない。育児ノイローゼになる人へのサポートも必要だし、他人を洗脳しお金を巻き上げるような精神的に歪んだ人にはカウンセリングや治療が必要だし、でも何より、まずまっさきに、そんな大人のせいで脅かされる子どもの命をなんとかして守る必要がある、最優先。安全で、あたたかいご飯を食べさせてくれる場所に連れて行き、守ってあげる必要があったのだ。

親でもなく、何も知らない通りがかり第三者だとしても、弱い立場におかれている子どもという存在が弱っているのを見かけたら、他人の家庭のことでも口出したり、手を出したり(しかるべく機関に引き渡すなど)してもいいんじゃないかと思う。



まちなかで、泣いている小学生/中学生を見かけたら、親ではない第三者の私にできることはなんだろう?何だったらしてもいいのか?

ちなみに冒頭の少年は、どうやら、学校で必要だと言われているマスクを親に持たせてもらえなかったことで、泣きながら登校していたらしい。(暴力や虐待でなくてよかった。)もしかしたら、今の日本全国で見られる風景なのかもしれない。マスク着用絶対反対派の親と、マスク着用をルールとして定める学校との間で、板挟みになり苦しい想いをしている子ども達がたくさんいることだろうと思うと胸が痛くなった。





20210615

言葉遣いのメモ:「あなたは誤解している」

 Aさんが言う

「Bさん、あなたは誤解している。誤解を解きたい。説明をきいて欲しい。」

という言葉の、なんと傲慢で、自分勝手なことか。


*ある明確な「事実」に対して、「間違った理解や解釈をすること」を「誤解」という、とすると


Aさんは、「自分Aが正しい」という前提で発言をしている。「Aさん自身は『事実』を『間違わずにきちんと把握している』と思いこんでいる。」しかし本当にAさんは「事実」を正確に把握しているのだろうか?Aさんはなぜ、「Aは事実を誤解などしていない」と言い切れるのか。


Aさんは「Bさんの解釈は間違っている」と述べている。「Aさんは、『Bさんが事実をどのように解釈しているのか』を『間違わずに理解している』」という前提で発言をしているが、これも思い込んでいるだけかもしれない。「Bさんの考え方」を理解していると、Aさんはどんな根拠で自信を持って言っているのか?


「Bさん、あなたは誤解している。誤解を解きたい。説明をきいて欲しい。」というAさんの発言をひらたく言い直すと、「私Aは悪くない。Bが間違えている。説明を聞け。」となる。Aは「誤解もすることなく冷静に事実を把握できる存在」として、A自身を取り扱っている。なんとも上から目線。傲慢に、Bを見下ろしている発言。権力のある人、強引に物事を推し進める人Aが自信たっぷりに発言するのを聞くと、辟易とする。


「あぁ私は『誤解』をしていた。」と気が付くことができるのは、誤解をしていた本人だけではないのか。


(政治家がよく「誤解」という言葉を使いますよね。政治家自身は間違ってない、という訴えなのでしょう…)


<ケース:1>

Bは、とあるプロジェクトから降りることを決めた。プロジェクト概要と、降りる理由についてはここでは省略する。

Bは、プロジェクトを降りようと思っている旨を、プロジェクトを取り仕切っているAに伝えることにした。BはAに、話をする時間をとってもらいたいと申し出た。今後、別件で一緒になる可能性もゼロではないAとの関係性を悪くしないためにも、なぜプロジェクトから降りることにしたのかの理由をいくつか説明し納得してもらった上でプロジェクトから離れようと考えたのだ。日時を決めて電話で話すこととなった。


電話がつながり次第、Aは一方的に話はじめた。Bが話をしたいと言ってかけた電話であるのにもかかわらず。Aがお構いなしに話しつづけるのをBは辛抱強く聞くこととなった。一方的であり、とてもコミュニケーションとは言えない。AとBの関係性がよく分かるエピソードだ。Bがプロジェクトを降りる理由がまたひとつ増えた。


Aが言いたいことを言い切ったようで、会話が途切れ静寂が訪れた。Aが話した内容についてBは触れないこととした。(プロジェクトを降りるBには、いまAが話した内容について深める必要がなかった。)本題に入りたいBは一呼吸おいてから切り出した。「今回お時間をいただきましたのは、お話したいことがあるからです。このプロジェクトを続けるべきかどうかしばらく迷っていたのですが、降りようかと‥」Bが話している言葉をAが遮った。「いやいやいや、どうして。それは困るよ。」そうして、件の発言につながる。


A:「Bさん、あなたは誤解している。誤解を解きたい。説明をきいて欲しい。」

Bは思った。(誤解も何も‥私Bはまだ、何の説明もしていないではないか‥。Bが何を考えているか知りもしないで何を言う)


Aはまた一方的に自身の主張をし続けた。「Aは間違っていない。Bが間違っている。」という内容を繰り返し。結局、「Bが、プロジェクトを降りようと思った複数の理由」については共有される場面がつくられることはなかった。「降りることにして正解だとBが確信を持つことができた」と言う意味では収穫があったということができる。今回の件に限らず、今後もAとの案件は避けた方が良さそうだな、とBは心の中で思った。

(後日、AさんからBさんに「誤解を解きたいからBさんの家まで行く」という連絡が入った。Bさんにとったらとんでもなく迷惑な話だ。これ以上、貴重な時間を割きたくない。誰が、Aさんの一方的な話を聞きたいと思うのか。家まで押しかけられたらたまらない。Aさんは終始Aさんの都合だけで動いている。「私Aは悪くない。Bが間違えている。説明を聞け。」Bさんにとってのメリットは何もない。もちろんBさんは断った。)


誤解、とは何だろう。誤解という、言葉の使い方について人生で一度くらいは考えてみてもいいんじゃないかな。というメモ