20190331

Sounds and music 音の世界


結婚して、2人で暮らすようになってから、私の「音の世界」が格段に広がりました。日常生活の中で、ちょっといい音で音楽をたのしむ…これまでの私の人生でなかった習慣です。夫のおかげで、今まで知らなかった音楽をたくさん聴きました。

心地よい旋律だけでなく、聴きづらい音もあります。流れてる音楽の中でときどき「この音楽好きー」って思う曲があって、それはだいたい「Steve Reich(スティーブ ライヒ)」さん。どうやらどの曲も好きみたいです。Steve Reich。今まで知らなかったなんて!

「ツノハウス」(我が家)の音響は、なかなかいい感じです(素人の私の感想ですが、なんだかけっこう、いい感じです)。音響コーナーの担当は夫。気がつくとせっせと何か接続したりセッティングしたり、ピカピカにしていたりします。最近、レコードが聴けるようになりました。レコード!私には縁のなかった存在!私が聴いた最初の一枚は「KEITH JARRET」さんでした。私にも聴きやすい曲。

それからどうも、スピーカーによって音の響きが違うみたいで、ずいぶん奥が深そうです。演奏者によって、音楽によって、または聴く側の気分に合わせて、スピーカー使い分けるようになったら、よりシックリ馴染んだ音楽をきけるんだろうな…と思いますがちょっとまだ私にはハードル高し。

そうそう、ギターの弦を鳴らすたのしみも覚えました。コードを知らなくても、何かの曲になってなくても、なんとなく気分で弦をはじいているだけでも、ずいぶんと気持ちいいです。ジャカジャン~。適当なリズムで適当な歌詞で気ままに歌うのが楽しいって、これ、ちっちゃい子どもの時以来かもしれない!(学校での音楽の授業が苦手だった私、音楽コンプレックスの塊で、カラオケだって全然楽しめない、そんな期間をずいぶん長く過ごしてきました。)久しぶりに、ひとり気ままに歌ったりして楽しんでいます。

20190324

WANDERLUST

* WANDERLUST、真子(MAKO.pen&paper)より、引っ越しのご挨拶も兼ねてWEBサイト更新いたしました。ぜひリンク先のWEBサイトをご覧ください。
https://wanderlustnagano.wordpress.com
* 下記、WEBサイトのご挨拶文の一部抜きだしました。全文はWANDERLUSTのWEBサイトで。
_______________________________________________________________________________


Welcome to 'WANDERLUST -Stories & Images-'.

長野県長野市の小さな小路に面したお店、ギャラリー「WANDERLUST(ワンダラスト)」は、花と絵とピアノのある空間です。


フローリスト (Atelier flumina flumira)と、
スケッチジャーナリスト(MAKO.pen&paper)
の2人が空間をシェアし運営しています。


WANDERLUSTは作業場であり、暮らしの場でもあり、時に演奏会などイベントも開催します。音楽家や詩人、農家さんやソムリエ、研究者に芸術家など様々な人が集い、それぞれの魅力的な世界をシェアしてくれます。


スケッチジャーナリスト(MAKO.pen&paper)の家「アトリエ床上・床下ハウス」でもありました。床上(ゆかうえ)で絵を描く仕事をし、床下(ゆかした)に眠ります。


2015年3月3日にオープンして以来、長野市の方はもちろんのこと、日本全国、また海外からも様々な人が訪ねて来ました。フローリスト、スケッチジャーナリスト共に海外生活経験があり、友人や友人紹介の新しい知人がWANDERLUSTを目指して遊びに来てくれて、結果的に国際色豊かな場所となりました。新たな人が訪れ、風通しのよい緩やかなコミュニティーが形成されつつあります。

12301706_562336593915845_4477101618548413941_n

2019年3月3日の4周年記念日を境に形態が少し変わります。

スケッチジャーナリスト(MAKO.pen&paper)の「家」としての機能がなくなります。「アトリエ床上・床下ハウス」を引き払って、お風呂や台所のあるあたたかな家に引っ越します。


引き続き、フローリスト (Atelier flumina flumira)のアトリエとしてこの場は続いていきます。季節の生花溢れるアトリエでは、これまで通り、ブーケ、アレンジメントのオーダーをすることもできますし、ワークショップに参加することもできます。

ときどき、イベントもひらきます。WANDERLUSTの2人が、心からいいなぁ、と思える魅力的な人との心おどる企画だけ行います。回数は少ないかもしれませんが、きっと、あなたに新鮮な風を送り込むような、素敵な時間をお届けします。


もちろん、スケッチジャーナリスト真子も、絵のご依頼を受けることができます。声をかけてくだされば、これまで同様、フットワーク軽く日本全国どこへでも、海外へだって、出かけていくつもりです。(新居最寄駅は岐阜駅からの交通費他、経費がかかります)
花と絵のコラボレーションを希望される方も、お問い合わせくださいね。


「世界を知りたい探求したいという強いきもち」という意味を持つ言葉、WANDERLUST。好奇心を持つあなたのお越しをおまちしております。

2019. 3. 21 (春分)

IMG_1246



20190323

1166backpackers 誰かの人生の方向を変えているかもしれないという話

1166backpackers さんの看板娘(!?)のお人形。この仕草がなんとも可愛らしい。(リアル看板娘のしーちゃんによく似ている…)の記念写真

3/19から三日間、長野滞在。1166backpackersさんにお世話になりました。
滞在中、とても心地よかったです。

はじめて泊まったのは5年?いや6年くらい前でしょうか?長野に引っ越して来る前のことです。ビトケさんがお店番していて、うるおい館への道を教えてくれた時に「大きな木があって」と何度も言ってくれたのがとても印象的でした。道案内で「木」を目印に使うっていいなぁと思ったのです。そして歩くと実際に大きな木があって「おぉっ」と圧倒されたのを覚えいます。

初滞在の時にはお会い出来なかったオーナーの織絵さん。この数年間のわたしの長野生活中は大変お世話になりました。ご近所さんとして、とてもあたたかく心強い存在でした。今回の宿泊で始めて、「宿のオーナーさん×お客さん」としてお世話になりました。ほどよい距離感から、控えめに、ラウンジに集まる旅人達を見守っているオーナー。日本語や英語織り交ぜながらの会話のアシストが絶妙で、すごいなぁと思いました。私も身につけたいスキル…。



3/20 夜。大きなテーブルの端っこで、消灯時間ギリギリまで、自分のお仕事をさせてもらっておりました。オランダからの旅人は、ビール飲んでゆったり寛いでいたけれど、「good luck」と言いのこし二階へ。お客さんの誰も居なくなったラウンジで最後30分、めちゃくちゃ集中させてもらいスピードアップしてカタカタしました。やることたくさん、なかなかゴールにたどり着きません…、もっと作業続けたいところでドクターストップならぬ消灯時間23:00。おかげ様で、ある程度ヘルシーな時間(!?)で仕事を終え、健康的な生活が出来る…かも?

長野のおうちがいよいよ空っぽになりました。もうコタツもなければ、布団もないし、カーテンだってありません。ほんとうの空っぽ。眠るのに適さない場所となってしまいました。そこで近所の宿に泊まっております。あともう、ふた仕事。長野でのお仕事、打ち合わせ。



3/21 朝。

シャワー待ちの間に本と珈琲を。松浦弥太郎さんが、自身のはじめて書いたラブレターの思い出を綴るところから始まり、松浦さんが素敵な人だと感じる女性とのささやかな会話を紹介していくショートエッセイへと続く。思いのほか、しっとりした内容で、こそばゆい。手の美しい人、それも白魚のような手ではなく働き者の美しい手をした人が魅力的だという話があった。

手といえば。昨日、左手中指の爪が、剥がれかけた。ダンボール箱を解体するのに、しっかり粘着した部分を手ではがそうと奮闘していたら、爪先ひっけて力を入れてしまい、ベロンと爪が外側に沿っって、バチんと元の位置に戻った。びっくりしすぎて声も出ず。そのあとジワと滲んできた血がポタポタするので慌てて水道で洗い流した。左手でよかった、とその時は思った。ペンを持つ手には支障がないわ。この忙しいのにペンが握れなくなったらとんだ事態。左手なら大丈夫。

でも、私の予想は甘かった。パソコンのキーボードの文字を打つときに、左手の中指すごく大事だったみたい。今まで無意識に文字打っていたみたいで、ちっとも左手の重要さに気がついていなかった。申し訳ないきもちになりました。キーボード打つたびに鈍い痛みが走るので、昨日は中指使わずに文字を打っていたのでした。

不思議なことに、一晩寝て起きたら、痛みがなくなっていました。ページを捲っても、何をしても、違和感なし。「驚異の回復力」とは、夫によく言われる言葉なんですが、自分の身体の回復の早さに今回も感謝です。・・爪が剥がれかけて元に戻った手については、松浦弥太郎さんはどう思うかしら、とそんなことを思った朝読書なのでした。私の手は、なかなかに働き者ですし、なかなか力強い回復力を持っておりますよ。


1166backpackersのオリジナルマスキングテープ、作らせてもらったのでした。わたしMAKO.pen&paperのイラストです。


さて、話が随分脇道にそれました。ほんとうはここからが、書いておきたいエピソード。

1166backpackers 滞在中に嬉しいことがありました。たまたま同じ日に宿泊していた方が、私のことを知っていてくれて、というか覚えていてくれて声をかけてくれたのです。とある高校の先生でした。進学校で、難関の大学の受験をパスするための数学を生徒に教えていた方。「真子さんに出会わなかったら、今もまだ僕は同じ高校で、同じように数学を教えていたでしょう。」とのこと!?えっ何ですって?と聞き返したくなってしまうでしょう?聞き返しました。

「真子さんのあのワークショップを受けたことで、人生が変わったんです」っておっしゃるんですよ。その方。はて。私はいったいどんなワークショップをして、何を話したのか。記憶の糸を辿ろうにも、ぼんやり透き通った糸はうまく手繰り寄せられず、思い出せません…。若い高校生のために、何をしたらいいのか、けっこう真剣に悩んでワークショップ組み立てていたとは思うのですが…まさか生徒ではなく、付き添いの先生の方の心に届いていたとは!果たしてその先生が人生の方向を変えたことがいいことなのか、どうなのかよく分かりませんが…ただ、私が長野に居て、私なりに一所懸命取り組んだことが、誰か1人にでも影響を与えたんだなと実感できました。(よい影響だといいんだけれど…!)

奇しくも長野を去ろうとしているタイミングで、「真子さんのおかげで人生が変わった。ありがとう。」と言われるのは、なんだかちょっとくすぐったく、やっぱりちょっと嬉しかったです。最後に1166backpackers に泊まってよかったなぁ。

人生の節目の時期に、お世話になりました、特別なお宿です。
ありがとうございます。

真子


20190322

I’m ready to start new journey. たびだち




I’m ready to start new journey.

It is all about the journey. There is more to life than increasing its speed. I took few days to packing up my stuff, few more days for cleaning and writing letters. I wish you will find my letter to you. I wrote a letter on the wall. You are able to read it until new person starts to rent the space. Anyway, The departure time has finally come. I’m leaving from “WANDERLUST -Stories &Images” on March 2019, and heading to new place.

A good traveler has no fixed plans and is not intent on arriving. Agree? I can’t imagine how my new journey works. If All journeys have secret destinations of which the traveler is unaware, then... I’m looking forward to figure out what’s that. I don’t really have new plan yet. I just decided who I will traveling with and where to start. That’s all. I will keep enjoying my life with a sense of WANDERLUST.


荷造りが終わりました。旅立ちの時間です。



「アトリエ床上・床下ハウス」と名付けた私の長野の拠点。床上(ユカウエ)で仕事をし、時に人と食事をしたりして。床下(ユカシタ)は、心静かに引きこもる場所。集中して読書したい時にも役立ちます。そして、こどもと仲良くなれる空間でもあります。




ここを離れることを公にした2019年3月3日から、ゆっくり時間をかけて、したくをしました。荷物を詰めるのに数日、お掃除するのと、お手紙を書くのにさらに数日。



最後に置き手紙がわりのメッセージを、入り口の壁画にかきこみました。3月いっぱいは読むことができるでしょう。お部屋は3月いっぱいまで私が、かりております。 4月以降、新たな入居者が使いはじめるかもしれないので、その前に。直接会えなかった皆さんへの置き手紙設置期間です。


フローリストfulminanten flumiraさんの営業時間内に限りますが、もしよかったら、ぜひ見に来て下さい。あ、階段手前までにしておいてくださいね、奥まで入ると危ないので。穴やら井戸やらありますから、落っこちて怪我をしても責任負いかねます。


空っぽのお部屋ですが、ぜひ覗きに来てください。スケッチジャーナリストの真子が5回の冬を越えて暮らした場所はこんなところだったのね、と見てもらえると嬉しいです。これまでプライベートな場所だったので、一部の人しか見られなかった壁。



ものがたりのはじまりの絵。グイグイ私が描いた潮流の上に、魚の群れを描いてくれたのは、ともよちゃん。 プラスターボードが貼られたのが2015年3月2日の日中で、しかし3月3日にオープンしたかったので、時間の余裕がほとんどなかったのです。ほんのひと晩でなんとか何かしたくて、えいやっとアクリル絵具で描き上げました。しばらくしたらやり直そう、って思ってた。漆喰とかで仕上げようか、木の板貼ってみようかとか、いろいろ思ってたけど結局このまま、4年間。はじまりの絵を一緒に描いてくれた友人が、最後の夜を一緒に過ごしてくれました。絵を撫でながら思い出話に耽る夜。

Thank you for standing by me. It was nice WANDER’LAST’ night with best friend in Nagano.




この建物は昼間はシェアスペースとしてたくさんの人が出入りしておりましたが、暮らしていたのは私だけです。夜は、昼間とは全く違う表情と性格と持っていました。あの素晴らしく不思議な宝物のような時間は、共に過ごした人の記憶の中に存在しているはず…。知らない人は、どうぞご自由に想像を膨らませてみてください。




これから先の新たな旅の予定はちっとも決まっておりません。一緒に旅する人とスタート地点だけ決まっております。どんな旅になるのか自分でも想像できませんがセンス オブ「WANDERLUST」を大切に、未知なる世界を楽みつくしたいと思います。

では、また


真子

2019.3.21 春分

20190305

たびびと What a wonderful WANDERLUST DAY.

「詩人によって、詩の書き方はそれぞれ違いますが、
ぼくの場合は、詩を書くために必要なことは、
詩を書く作業ではなく、詩を聞く作業。
旅や冒険を渇望する心を表するwanderlustの、
ひとまず幕をおろすこの時に、どんな詩が聞こえてくるのか。
場所と、二人の店主、そしてそれらを愛した人たち、
皆が胸に秘めるだろう、一抹の寂しさと、門出への期待を、
代弁するような詩は、どんな言葉で聞こえてくるのか。
そんなことを頭の隅に置きながら、過ごしていました。
ぼくもちょうど旅をしていたので、ちょうど良いoccationでした。
長いインプットを終えて、アウトプットし始めたのが、帰国後でした。」

先日、スコットランド旅から帰国したばかりの詩人、ウチダゴウさんから届いたメッセージです。そうして詩が届きました。


たびびと


2019年3月3日の What a wonderful “WANDERLUST DAY!” という特別な日の為に、職業詩人(プロの詩人)に、詩の制作を依頼しました。WANDERLUSTのことを詩にしてほしい。なんとなく頭に描いていたのは、お花と絵にまつわるカラフルでハッピーな詩でした。WANDERLUSTはフローリストと、スケッチジャーナリスト二人のシェアアトリエ&ショップです。ここで過ごした4年間どれほどの煌めく瞬間を2人で過ごして来たのか、数々の思い出をなぞりながら詩の到着を心待ちにしていました。詩が届いたらすぐに、WANDERLUSTの片われのフローリストと、きゃっきゃしながら詩を読むんだと、そう思っていたのです。


「たびびと」をはじめて読んだ時、とても動揺しました。想像していたのとは全く違う詩でした。胸を締め付けられる思いでした。「どうして、」とつぶやきました。


のどにつまった ことばを  
すべて しずかに  のみこんで
やがてわたしは  そこをたちさるの




「たびびと」の一部分です。
どう考えても、わたし、真子のことをうたった詩でしょう。
でもわたしはひとこともそんな説明  (のどにつまった言葉をのみ込んでいるだなんて話)を詩人にしていないのです。
「どうして、わたしが、たくさんのことばを、のみこんでいると、?」

心を読まれているのかとヒンヤリしました。


少しでもわたし真子という人間に会ったことがある人ならば
「真子ちゃんはお喋りな人」という印象を持っている人が多いのではないでしょうか。
よく喋るし、よく書くし、隠しごとなくおおっ広げな人だなぁと、思っている人も多いだろうと自分では思っています。WANDERLUSTという場所は、おしゃべりな絵描きの真子と、秘密めいたフローリストの二人のアトリエ。そういうニュアンスのことを言われことが一度ならずなんどかあります。だからどちらかというと、


「のどにつまった ことばを  
すべて しずかに  のみこんで」
という言葉から連想しやすいのは、相方のフローリストの方のイメージで
決してお喋りな絵描きの方ではないはずです。


でも詩人は、言葉を飲み込むのは、旅立つ絵描きの方、すなわちお喋りなわたしの方に
なぜ詩人はそう思ったのでしょうか?または、そう書いたのでしょうか?
一般的に人は、旅立ちのシーンでは口をつぐむものだから…?いやいやそんな一般的な解をあてはめるようなことはきっとしないはず。なぜならプロの詩人だから。WANDERLUSTという具体的な場所をテーマにとお願いしているし、そうお願いできるくらいにはWANDERLUSTのことを知っている人なはずです。2人の店主のことも、知っているはず。


詩人ウチダゴウさんは、わたしが想像している以上に、鋭いまなざしで、WANDERLUSTのことを見ていたのかもしれない。そう思いました。彼のことを見誤っていたかもしれない…つまり、彼の観察眼をなめていたかもしれない。ウチダゴウさんの言うところの「詩を書く作業ではなく、詩を聞く作業」とはこういうことですか、と、ハハーと頭が地面に擦りそうになるくらい垂れていきます。



すべて しずかに のみこんで

すべて
と詩が言っています。現実の状況説明を書いているのではなく、これは詩なのだから「詩情を、言葉で表現している」フィクションと捉えることもできるでしょう。でも、わたしにとっては、これは、実に、現実に即した解説のような言葉です。よく、捉えられている。つまり、わたし自身の自覚として、「のどにつまった ことばを  すべて しずかに  のみこんで」いるという感覚があったということです。「たびだち」を意識してから、3/3を迎えるこれまで、それはとても長く長く感じられる時間、なんどもなんども飲み込んでいる言葉の数々は、これから先、吐き出されることはないでしょう。むこうに落ちて沈んでいった言葉は、浮かびあがることなく沈殿している…これまでの人生でもよくあることです。それでいい、と思っています。というか、そのようにしかできない、ので、どうしようも無いのです。変えなさいと言われてできるものではない。ただ、やはりくるしいことにはくるしいのです。


どんな言葉を飲み込んだのか、詩には何も書かれていません。ただ、言葉を飲み込んだと、それだけ。でもそのひとことがあったことで、何も書かれていない沈んだ何かの気配がユラリとします。そのユラリが、わたしの心をひどく揺さぶるのです。そういうわけで初めて「たびびと」を読んだ時、わたしは動揺したのです。










さて、話は変わり、詩の表現方法についてです。この表現というのは、詩の言葉えらびの次の段階です。「できあがった詩をどのように、人に伝えるのか」ということです。

「3/3の会に、参加が叶わず、申し訳ありません。
が、この詩によって、参加ができたならと思います。
当日読んでいただいても構いませんし、
真子さんの文字でウィンドウに描いてもらっても構いません。」

詩人に任せられました。なんて責任重大なのでしょうか。この伝え方次第で、詩の印象がガラリと変わってしまいます。

わたしが表現するのなら、それは読むより、かく方がいい。事前にかいておくのではなく、その場で、ライブ感をもってかきたい。3/3の後半、締めを詩で、しっとり抽象的にしめるのもいいかもしれない。「事前に誰にも詩の内容を知られないようにして」当日の詩の時間をむかえた方がいいんじゃないか、と、そう初稿をもらい初見した時に思いました。




さて、依頼した詩です。おそれおおいことながら、少しかき直してもらうように注文しました。とはいえ、ウチダゴウさんには知らせていない(知らせることのできなかった)、あらたな状況がうまれたからです。それはウチダゴウさんには何のひもないこと。かき直してだなんて失礼だと思いながらも、でもどうしても3/3で発表するなら私にとってすごく大事な日なので、引っかかりを残しておきたくない。と修正を依頼しました。すると、かきなおした詩が届くのは、3日ギリギリになるかもしれない、との連絡をうけました。ご自身の展示もある時期で忙しいのも承知のこと。しかし、焦りました。

詩をもらってから時間があれば、よくよく読み込んで、どんな文字をどう配置していくかなどテストすることができますが、ギリギリ到着では、詩が届いてから、ぶっつけ本番でオンステージです。普段、下描きなしの一発勝負の絵を描くのは好きですが、でもそれは、これまで何度も描いてきて手に脳が宿っているくらいよく手が動くから。絵ではなく、「ことばの連なるもの」を手がきするのは、ずいぶん勝手が違います。突然どうこうする自信が全くありませんでした。そこで、わたしの信頼する表現者の方の、お力をおかりすることとしました。音楽家の平松良太さんです。作曲家でピアノ奏者。WANDERLUSTのピアノ、WANDERPIANOの持ち主のひとりでもあります。「事前に誰にも詩の内容を知られないようにして」と思っていたけれど、平松さんは別枠です、共演者になっていただこうと。

かくして、ほんとうに直前に届いた詩を、平松さんによんでもらいました。
「これは真子ちゃんの詩ですね。真子ちゃん1人で、読むより描くのが良いかなと思いました。」そう、わたしが想像し、希望していた方法と同じでひとまずホッとしました。
「RYOTA HIRAMATSU/3     19曲目にrainbowという曲があります。CDだと8分ぐらい。
これだとぴったりかなと思います。」「曲でなくその場の感じでフリーに弾いても良いです。何れにしても音があった方が真子ちゃんらしい空気になる気はしました。」音についてはおまかせすることとしました。平松さんの思う「真子ちゃんらしい空気」を作ってもらえるなら、その音に身をまかせようと。

一点最後まで、詩の時間の直前まで迷っていたことがあります。「ウチダゴウさんがかいてくれた詩です」ということを、説明するか否か。口頭でか、もしくはpoem by...と書くか、もしくは、サイレンスか。どれが一番良いチョイスなのか全く分からず、平松さんのいうことに異論なく従うつもりで相談。結果。ここは何も言わずに、真子ちゃんの言葉として静かにかくのがいいだろう、その方が、その場にいる人の胸を打つだろう。その通りにしてみました。演出家としての平松さんの名采配だったと思います。

ウチダゴウさんが代弁してくれた真子のきもちをかいた詩を、こんどは真子が代弁者として人に伝える、という二重の代弁劇。ゴウさんの詩が自分の詩となって、自分の内側から溢れてくる不思議な感覚。

かきはじめてすぐに、きもちがきゅーーーんとなりすぎて、手が思うように動かず
ものすっごく下手くそな文字が出来上がってびっくりしました。こんなへなちょこな文字ははじめてです。「たびびと」まずたった4文字のその言葉をかいただけで、事態の異常さに気がつきました。「線がコントロールできていない…!これ誰の文字だろう?」詩をかきすすめます。どうにも視界がかすみます。目がうるむのです。ゴウさんの詩が頭の中を通って、指先にたどり着く前に、私の目のあたりで涙になってポロンポロン落ちるのです。詩を書き写しながら泣くだなんて、そんなこと、これまでにあったでしょうか?たぶんこれがはじめてです。きもちが動きすぎて落ち着かず、涙で霞んでしまって視界もおぼろげ、呼吸も浅くなり、さっそくしょっぱなから間違えてかいてしまったり…表現者として、たぶん失格です、ただ全身がゴウさんの詩に浸っておりました。



お花の絵を一輪かいて添えたのですが、こちらは泣いててもスルスルかけました。やはりわたしはこれまで絵描きとして鍛えてきていて、言葉かきとしての鍛錬は圧倒的に足りてないんだと実感。絵描きとして、花の絵をかくことは、深呼吸するようなもの。呼吸が整えば、きもちも整います。気をとりなおしてもう一度、ペンとガラスと向き合います。そうしてかきうつし終えた頃には胸がいっぱいで、泣けちゃって泣けちゃって、もう何も喋れなくなっていました。



ふと振り返ると、そこに居た何人かの目がわたしと同じく涙で濡れているようなのを見つけました。詩がこんなに人のこころを動かすのか、共感を誘うのか、と驚きました。想像以上で、びっくりです。ウチダゴウさんのすごさを、こんなに感じたのは、はじめてのことです。すごい詩人だ。そして、平松さんのrainbow無くしてあの時間は作れなかった。たぶん、ただ詩の文字の印刷されたものをわたされて黙読しただけだったら、あんなに人を泣かせられない。シュチエーションと、タイミングと、詩をかくのにかかった時間と、ピアノの音と、全ての歯車がカチっと合ったからこそ生まれえたのだと思います。あの日、あの時、あの場に居合わせてくれたみなさんだけが体験できた、奇跡の時間。


1日過ぎて、今日、この場で、告白します。あの日あの時かいた言葉はわたしの言葉ではありません。真子のきもちを代弁しているのであろう言葉をウチダゴウさんが詩にしてくれました。



詩人、ウチダゴウさんの詩を
わたし真子が、タイミングを選びガラスにかきつけ
平松良太さんが、演出を考え音を添えてくれた。
3人の共同作品です。
その場に居て一緒に感動してくれたみなさんも
一緒にあの時間をつくったのだとおもいます。
そういう意味では何十人に共同制作でしたね。
良い時間でした。


2019年3月3日の What a wonderful "WANDERLUST DAY! "というイベントのしめくくり「たびびと」の時間についての日記でした。

Thank you.





みちはおれて わかれていく

いつかどこかで またあえるけど

いつどこなのか わからない

それまでずっと つづけるの

あなたのたび  わたしのたび

どこまでもずっと つづくのよ

こころがたびを   のぞむかぎり






20190210

お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。2019年100日記

《お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。(2019/2/10)》
語りたい1000の物語を抱えながら、それを伝える相手がいない。それで、真っ白なスケッチブックに向き合っている。と、友人が、私、真子のことを説明してくれた言葉。

口をつぐむことに慣れてしまった。というと、お喋りな真子ちゃんが何を言っているのか、と突っ込む人がいそうだけど、これでもずいぶんと抑えている。本人の感覚としては、100の話したいことがあった時に2、3だけ思っていることを口にする。1人の相手に対して、例えば100日会ううちに2回か3回くらい、ほんとうに心に大事にしまってある扉をあけて本音をそっと差し出してみる。他の98日は呼吸をするようためにお喋りをしている。そこに気持ちや思いがないわけではない。ただ、頭で考える間もなく反射的に口が動いている、そういうイメージだ。それはそれで意識していない分、本音の本音かもしれないから、ややこしい。えぇっと、2回か3回くらいは、意識して、すごく頭で考えながら話す、そういう機会。

2回か3回のチャレンジは、多くの場合大抵うまくいかなくて、その後自分でおそろしくへこむ。本人は、本音を「そっと差し出している」つもりだが、受け取る側は突然バクダンをくらったような、そんなリアクションをされたりもする。何しろ98日分溜め込んでしまってすっかり発酵しきってしまった考えや思いは、ずいぶんと重くなっているらしい。抑えていたものをようやく解放できて少し心が楽になりそうわたしと対照的に、周りはひゃーひゃー大騒ぎになってしまい、そして何故だかわたしは叩かれてしまったりする。語り合いたいことがあったのに、できない。また口をつぐむようになる。すると、その相手には本音を出せる機会がほんとうに全然なくなってしまう。対等なところで向き合って話したいと思っていたのに残念だ、とへこんむ。とてもかなしい。一度や二度ではなく、なんどもそういう事態になるから、きっと何か問題があるのだろう。コミュニケーション下手を痛感している。そして何より「さみしい」と思う。

一方で、2回か3回の限られた機会に、向き合って話をすることが成り立った時には、ものすごく強い喜びを感じる。意見は違って合わない場合も少なくなく、全く合わない価値観で「へぇ」「えぇっ!?」て驚き合える会話はすごく貴重だ。(ついこの間そんな楽しい会話があった。)そういう相手にも、わたしには見せてない部分が98くらいあるのかもしれない…とよく想像したりする。でも相手が抱えている物語のなかの2-3の部分だけでも公開して交換しあえたら、それはきらめく時間で、わたしにとって、喜びそのものだ。長くお付き合いする貴重な大切な人となる。

基本的にいつもどこかで「さみしい」と感じている。「人はそもそも孤独なものだ」という言葉を目にしたり、耳にするたびに、「そうなんだろうなぁ、そうだよなぁ」とうなづく。本や映画やドラマの中で頻繁に見かけるということは「人はそもそも孤独」だと感じている人が古今東西にたくさんいるのだろう。孤独が基本で、気持ちの交換がなかなか成り立たない(分かり会えない、語り合えない)のが普通のことだという前提でいるようになると、少しだけ自分の気持ちが楽になる。年を重ねるにつれ、ちょこっとづつ楽になってきたけど、ただ、同時に諦めることも早くなったような気がする。それがいいことなのかどうかはわからない。

「さみしい」という言葉は、度々わたしの日記に登場する。よく口にしたりもする。口にすると「わたしという友達がいながら、さみしいってどういうこと?」とつめよられたりする。かなしそうな顔をされる時は、申しわけないきもちになる。「人はそもそもさみしい存在かもしれなくて、他の人はさておき、わたし、だいたいいつも、さみしいんだよー。」って言っても通じないかもしれない。「ほんとうにさみしい人はさみしいって言わないんだよ。だから真子ちゃんはほんとうはさみしくないんだ。」と言われたことがある。ほんとうにさみしい、とはいったいどういう気持ちのことをいうんだろうか?とその後しばらく考えて、最近も時々考えてみるけど腑に落ちるこたえにはたどり着けない。ただ自分に言えることとしては、「通じ合えない、語り合えない、でも、通じ合いたい、語り合いたい、うまくできなくて、さみしい」の一文に集約される。

「さみしい」は原動力でもある。さみしいから、通じ合える誰かにつながりたから、描くし、書く。口での会話がうまくできなくて、会話でうまく思いを昇華できなくて、その分の思いのたけを、ぐっとかき出す。とある小説家さんが講演会で-普段の生活で会話がうまくできなくて溜まったフラストレーションを文章に変えて吐き出す-というような内容を話していた。

「文章でおもいを書いて人に見せる、ということを最近ほとんどしていない」と、このところ(ここ4年ほど)よく口にしている。こわい、が、先立っている。以前は、心に思いつくことをそのまま言葉にしていたのに、いつの間にかできなくなった。いや、いつの間にか、ではない、時期については知っている、…帰国のタイミングで、以降できなくなった。「どうしよう全然共感できない、分からない、」と思うものごとが身のまわりに溢れているように感じてしまった。違和感を言葉にすることがうまくできない。だれかを否定することなく、書くにはどうしたらいいのか。好感度が上がりそうな良い子の文章にはならなそうな場合、わざわざ公にしたり、人に伝えたりしなくてもいいのではないか。そりゃそうだ。

とはいえ、頭の中のもの吐き出さないとすごく息苦しい、違和感を伝えないことで違和感のある世界にズブズブと沈んでいく感覚はきもちいいものではない。この状態をなんとか脱却したくて、なんども「書けてないんだ、書きたい」と宣言してみるも書けない。やっぱりこわい。気持ちよく、思い書き連ねている(ように見える)文章に、とても憧れるようになった。そういう理由で、エッセイ/随筆を読むことが多くなった。持って回った言い方や言い訳の少なく、まっすぐ短く言いたいところにキュンと迫る文章を読むとため息がでちゃう。自分にはとてもできないことをしているなぁと。思いを言葉に変えて書き出せて、羨ましい、それが例え100の思いのうちの2か3だとしても。

自分のコミュニケーション下手に落ち込みつつも、もしも、いつでも「通じあえている」「コミュニケーションが成り立っている」と思いながら日々暮らしていたら、今頃どんな自分になっていたんだろう?何もわざわざ苦労して表現活動に時間を割くこともなかったんじゃないだろうか。 世の中の人すべてがコミュニケーション上手で、日々満足していたら、小説も映画も存在しなかったかもしれない。吐き出さずにいられないお喋り好きでお喋り下手が、ものかきや表現者になるのかもしれない。

最近結婚したばかりの夫と話をすることが、とても楽しい。この人には、黙らなくていい、思ったことを飾らず話せばいい。安心して口をひらいている自分がいる。意見の違うことはあれど、その違いをもっと知ろうと聞き出してみたりすると、新しい視点や価値観が自分に加わる。今のところ。(そりゃもしかしたら安らがない事態になることだって、これから先、あるかもしれないけども。)さて、日常の中で会話が心地よくできる時間が増えていったら、わたしはものを書かなくなるのか?答えはnoらしい。現に今、文章を書いている。これからももっと、書きたいなと思うようになった。どうやら、「安心して話していい」相手に存在が、「書きたいのに書けない」の壁をするするほぐしてくれているみたい。1000の物語を抱えているとしたら、ちょっとやそっとじゃ話したいことが尽きることはなさそうだ。

これからもきっと、呼吸をするようにしてお喋りをして、深呼吸がわりに文章を書く。ただし、心の奥の奥のかたい扉があいている時間が、少しだけ長くなりそうだ。

立春、新年を迎えての日記2つ目。今年は100の日記を書けるといいな。
《お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。


20190209

お寺のお庭の木の話 2019年の100日記


<お寺のお庭の木の話(2019/2/9) - 2019年の100日記一つ目>

うねる枝、ポカッと空いた(意図的にあけたのであろう)枝と枝の隙間、樹皮の質感と、密度のあがる葉の中に、ぽぅっと浮かぶような花。凄い。自然に植物の持つ力と、人の手の技の妙の、双方の力が相まってつくりあげる世界観に圧倒されました。宇宙を感じさせる木々のある庭。感動。描きたいなぁ。描きたい。久しぶり心の奥から湧き上がるように描きたくてたまらない枝に出会いました。この枝の剪定をしている人を心から尊敬します、どこのどなただか存じ上げませんが、ありがとうございますと伝えたい。木の枝と人の手がぶつかり合ってというか、積極的に向き合って、せめぎあってうまれたんじゃないかと想像させられる。反対に、遠慮しあっていたり、まぁだいたいバランス取ろうとか、なんとなくいい感じにしようとか、きっとそういうのじゃこの枝に辿りつけないんじゃないだろうか。勝手な想像ですが。

このところiPadとApple pencilとPhotoshopで絵を描くことが増えている。圧倒的なスピード感、変更修正の容易さと、その後の展開の幅広とスムーズさが、“仕事”に向いている。クライアントさんや、ディレクターさんや代理店さんなど、様々な人の要望を汲み取って、ラフ案を作り、ラフに沿って制作をすすめ、完成した絵に修正を重ねて、期限内にゴールに辿りつく、そういう“仕事”にはずいぶん使い勝手がよい。一から手で描き出して、紙の上に世界を構築していく方法だと、ちょっとした修正にうまく対応できなかったりして、時間がかかる。もう一度最初から全部手で描き直す場合も、これまでの“仕事”の場面でよくあった。これまでの苦戦していたことを思うとApple pencilを手に入れたおかげでずいぶんやりやすくなった。“仕事”をするのがとても好きである。色々な人との協力の中で、あっちとこっちの意見のバランスとりながら、このあたりの絵を出したら、みんなストって腑に落ちるかしらの完成形を出せるとホッとする。やりきった感、達成感を感じる。とても好きな作業だ。

対して、“絵を描く”という行為だけを取り出して、私個人の好みでいえば…ラフ案を作るのは好きではない。全然好きじゃない。下描きをするのも嫌いだ。一度下描きで描いたものをもう一度描くなんて、粋じゃないわぁ、と思ってしまっている節がある。書道にずっと慣れ親しんできた幼少期が、私の絵の根底にあることを思うと、身体に染み込ませてしまった経験はそう簡単に消せるものではなさそうだ。「お手本を紙の下にひいてなぞった書」がいかに、魅力に欠けるものなのか、それよりも「真っ白な紙の上、張り詰めて気を入れて生み出されたのびやかな線」がいかに魅力的なのか。

ところで、私も同じ木を何度もスケッチしたりすることもあるし、同じ花を何度も何度も描くこともあった。でもそれは、毎回その木と向き合って感動したことを紙にかきとめているのであって、どれも新しく生み出している。前に描いた絵に修正を加えているわけではない。ドキドキをつめた線を一本ひいて、その線がいきいきとしている様子を眺める、そういう体験をして、あぁ線は本番勝負で描くのがいいと身を持って実感し、いいかたちだぁと心が沸き立つ経験は強烈だ。幼少期だけではなく大学生になっても20代になっても…、何度も重ねてしまた経験があると、そう簡単に線に対する心持ちはかわらない。

美術館をたずねれば、習作をなんども作り、なんども描き直して、本番の絵に取り組んだところその上でもなんども色を塗り重ねて完成までもっていく画家達がたくさんいることも知識として知ってはいる。でも自分にはうまくあてはまらないみたいだ。無理にトライしてみても、下絵と全然違う絵になってしまったりする。だって、今のこの空気感とこの体調のこの手の動きで、この気温とこの光の中でかくなら、こっちに線引いた方がいい…みたいな、そういう、様々な条件にすっと身をまかせると、そういうことになってしまう。“お仕事”ではそういうことでは困ると言われる場合がほとんどだということも分かっている。なので、絵をのびのび描きたがる手を封印して(溢れちゃう時もあるけどなるべく封印して)日々描いている。

繰り返すが、”仕事”は嫌いではない、というかとても好きなことだ。”絵を描く“ことも好きなことだ。ただ不思議なことに”好きを仕事に“しているわけではない。「好きに絵を描く描き方は封印」しがちで、「仕事としての描き方を好きになれるよう、試してみたところ好きになれた」というのが現状だと、自分では分析している。(ごく稀に、全く下絵なしで、修正なしでのびのび描かせてくれる奇跡のような仕事もある、ということメモしておきたい。)実際のお仕事現場でおこることに向き合って折り合いをつけていく、という、言葉にしてみれば当たり前のようだが、そうやって日々絵を描いている。

そういう物分かりの良さそうな絵描きをやっているところに、冒頭の、木である。庭である。圧倒的で、感動的で宇宙的ある木。庭。出会ってしまって、頭に雷が走ったようだった。しっかり向き合って全力で木と自然と対峙する中で生まれたのだろうと思わせるバチバチの枝。物分かり良く、効率よく、問題なく描きあげる私の絵とは対極なきがする、対極、という言葉は違うかも、格が違うというか。

そうして、ただ、描きたいという気持ちが溢れる機会、最近めっきり減っていたことにすら、気づいていなかったことにも気がついた。久しぶりの感覚だ。ただ描きたい、あの枝のうねりを追いかけたい、パワフルな宇宙感を私の手にも体験させてあげたい、と、そういう気持ちだ。もし、スケッチブックとペンを持っていたら、1人で時間がありあまるようにあるのだったとしたら、その場ですぐ描くところだった。持っていたのはiPadとApple pencilで、これでは描けないな、というか、なんというか、「足りないな」と思った。描きたいなー描きたいなーと思いながら、こういうどっかから湧き上がってくるエネルギーをそのまま仕事として有効活用できたらいいのになぁ、とも思った。あぁ、またそうやって効率よく活用しようとか考えてしまう自分に少しがっかりしつつも、やっぱり”仕事として絵を描く“ことが自分にとってすごく大事なのだと改めて発見する。

そんなことを色々考えました。忘れないうちにメモ。家の近くのお寺を巡ってみたところ、偶然出会えたお寺のお庭の木の話。