20071216

川合邸、アトリエ・ギルドを巡る豊橋の旅

生まれ育った街、豊橋に人が訪れてくれるのって、なんだかすごく嬉しい。 
豊橋っておもしろいね、いいとこだね と言われると、 
自分が褒められたみたいに嬉しくなる。 

12月15日 
コルゲートパイプの家、川合健二邸の再訪とアトリエ・ギルドの仕事を巡る。  
30年〜40年前のアツイ豊橋人の空気を味わう 一日。 

前回初夏に川合健二邸を訪れた三人に、 
今回はコルゲートパイプの家に興味のある人を新に三人加え 
六人のパーティ。 
芸工の建築の先輩達に伊藤センセイも混じる。 
(芸工生じゃない人の為に…C+Aの伊藤恭行さん http://www.c-and-a.co.jp/) 

住宅街と山の接点に在る川合健二邸。 
丘の下、木々の間からちらりと見えるその宇宙船のような建築に 
二度目だというのに、圧倒される。衝撃的。 
洗練された美しさというのとは違うのだけれども、圧倒的な力強さと存在感がある。 
このオーラは何なのだろう。 




                     (先輩の撮られた写真をお借りして)


この家に一人で暮らすおばぁちゃん、花子さん。 
花子さんのみかん畑で収穫されたみかんと、 
花子さん自ら摘んで蒸して煎ってつくったというお茶をいただく。 
様々な質問に間髪入れず、的を得た返しをし、 
時折くしゃっと顔を崩して笑う花子さん 
「すごく魅力的なひと」「あたまの良いひと」と伊藤さんに言わせるほどの女性。 
そんな花子さんは、以前お会いしたときよりも、 
心なしか小さくなっていたような気がした。 
大きな大きなコルゲートの穴蔵の底にちょこんと小さなかげ。 
少し、焦りのようなものを感じ、そう感じてしまったことにかなしくなる。 

川合邸とは別のコルゲート建築の幻庵を訪れたのは2006年の初夏のこと。 
その年の秋に、ご主人、榎本さんは逝ってしまわれた。 
先日、榎本さんの奥様からいただいた手紙を読み、 
私たちが最後の来訪者だったことを知った。 
あの夏の幻のような不思議な時間が持てたことは奇跡のようだ。 
今年の夏の台風で幻庵へ向かう橋が落ちたのだということも知った。 
今では川を渡らない限り、幻庵に行けない。 

建築家として仕事を重ねてきた伊藤さんと 
形容する肩書きを持たず、「ただただ川合健二としかいえない」健二さん。 
伊藤さんの実感のこもったコメントを聞きながら、 
他人の評価を気にせず、野心を持たず 
常に真っ直ぐに、そのとき向かうべき課題に真面目に取り組みつづけた健二さんが 
どれだけ常人離れしているのか、そしてそれがどれほど凄いことなのかを、 
改めて思い知らされた。 

男が惚れ込む男。 

なのだと、嬉しそうに語る花子さん。 
亡き夫を慕い、または憧れ、今でもこの家を訪ねてくる人々に 
その夫の意志や、取り組んできた仕事、人となりを説明する。 
自分が惚れて、添い遂げた男のことを、こんな風に語ることができるだなんて 
極上の幸せではないだろうか。 
花子さんは、健二さんと、健二さんを慕う人々を「侍のような人」だと例えたが、 
花子さんこそ侍のようだ。 
信念が強く、一途で、賢くて、肝が据わっている、 
その上可愛い笑顔をもっているのだから最高、そして最強だ。 
破天荒でパワフルな健二さんと、コルゲートパイプの家川合邸は、 
花子さんなしにはあり得なかったに違いない。 
花子さんは、女が惚れる女だ。 

健二さんの生き様や、夫婦のはなし、この家の話、健二さんを囲む人々の話… 
話は尽きず、またついつい長居をしてしまう。 

幻庵は、榎本さん亡き後、榎本さんの娘さんが引き継いだそうだ。 
幻庵は、姿を変えて、まだしばらく生きていくようだ。 
文化財として保存されるより…幻庵の抜け殻、あるいは屍を保存するより 
ずっといい。 
「きれいなひと。容姿のはなしではなくて、とてもきれいなひと」と花子さんに言わせるようなひとだ。 
幻庵がどうなっていくのか、なんだか少し楽しみである。 













さて、川合邸訪問のこの日に彩りを添えるのは 
アトリエ・ギルドの手がけたお店での食事。 
今、豊橋で、私が気になる人、と話していると度々耳にするのがこの名前。 
アトリエ・ギルドとは30年〜40年程前(60年代後半から70年代にかけて) 
の豊橋で活躍していた 
建築家(彫刻家)×グラフィックデザイナー×写真家  
三人から成るクリエィテブ集団。 
今でこそ、建築やインテリア、ロゴ、音楽など 
トータルで店をプロデュースすることは珍しくないが、 
この時代ではかなり斬新だったのではないか。 
ちょっと一癖ある店々は、固定客を離すことなく、 
今もなお営業を続けているのだそうだ。 

cafe-バロックでランチ。 
不規則な形状をし歪んだ真珠を指すバロック。 
(バロック:ネサンス様式へ大きく反発して生まれた17世紀の芸術の様式。) 
強い激烈な印象を与える変化と対比、劇的な流動性… 
真っ黒な壁に鮮やかな赤い椅子、大胆に傾斜する(途中で傾斜が切り替わる)天井。 
ゆがんだ平面(プラン)に、妙な雰囲気のある声の太い店のおばさん。 
チェンバロが置かれた店内には静かにバロック音楽が流れる。 
先輩方は各々、おもむろにスケッチをはじめ、 
スコヤ(メジャー)を取り出しスケールを確認し、 
三脚をたてて店内を撮影する。 
…変な集団(笑) 
そんな先輩方の発見やら考察をほほぅと聞きつつ、眺めつつ、 
私はミートソースのスパゲッティをいちはやくたいらげ食後の珈琲を飲む。 
添えられた器のなかに、濃厚なフレッシュが泡立てられており、 
それをスプーンですくって珈琲に浮かべる。 
なんとも幸せ。 

夜はまた、別のアトリエ・ギルドのお店へ。 
酒房かるとん。 
一面木製の壁に、文字が彫り込まれている。 
一文字一文字彫刻刀で彫ったのだというその文字のエッジや、影が美しく 
「あぁ、文字って綺麗だなぁ」 
なんて間抜けな感想を吐かずにはいられない。 
そうそうアトリエ・ギルドにはグラフィックデザイナーが居るのだ。 
文字が好きな人はぜひ、ここに飲みにきてほしい。 
”死んだら酒は飲めないじゃないか。生きているなら酒を飲まなくてどうするんだ?” 
個人的にはバロックより、かるとんの方が居心地がよい。 
私はノンアルコールで、先輩方はそれぞれ赤ワインやウィスキーなどを飲み 
牡蠣フライやソーセージをつまむ。旨い。 

店を変えて、JAZZ喫茶grottaにて、 
タイムの効いた(たぶん)の魚貝のトマトリゾットとカレーライス。 
なんだか妙な、マイペースなマスターのいるその店でまた長居。 
豊橋は、洗練されしきってなくて、垢抜けておらず、 
独特な雰囲気のマイペースな人、店が多いとの指摘を受け 
喜んだらいいのか、かなしんだほうがいいのか、反応に困る。 
まぁ、そんな豊橋を好きだと言ってくれるのだから、褒め言葉と受け取ろう。 

本日の締めとして、grottaのブレンドコーヒーを頼もうとしたら先輩に 
「バナナジュースじゃなくていいの?」とメニュー表を指さされる。 
…実は心の中で、心の欲求通りにバナナジュースを頼もうか 
今日の雰囲気を損なわないために珈琲にしたほがいいのかと、 
かなり真剣に葛藤していたんです。私。見抜かれてた?(笑) 
今日は一番年下だし、お言葉に甘えて、 
おこちゃまメニューでも許して下さいと(誰もそんなこと気にしてないだろうに) 
バナナジュースを頼む。 

 んまい♪ 
カレーライスの後のバナナジュースは格別だわ♪ 


川合健二邸、アトリエ・ギルドの手がけたお店 
60年代〜70年代のアツイ豊橋 
…洗練されていないけれど、独特な雰囲気とオーラをもつ豊橋を 
充分に堪能した一日でした。 
やーーーー楽しかった。 
豊橋 って、わりといいとこよ? 
案内するから、おいでよ。

20071212

いのちのかたち

分子生物学者、福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」を読んだ。 
時間の都合によりいつもと違う本屋さんへ。 
本屋さんにて左手、てのひらに本を持ち、 
腕に手帳をのせ肘を少し曲げて固定し 
右手でメモをとりながら立ち読みしていたら  
あからさまに不愉快な顔をした店員に怒られた。 
いつもの本屋さんだと怒られないのに……。 
仕方がないので、めずらしく本を買った。 
税別740円の本をレジへ持っていく。 
777円。 
ちょっと嬉しくなった。 

高校で生物を勉強していない超初心者の私が 
初心者なりに(初心者だからこそ?)心動かされた 
いのち のはなし。  




聞いて聞いて、 
 いのちのかたち ってすごいの。 
 きれい。それにロマンに溢れているのよ。(陳腐な言葉だけど…) 

 いのち は 美しい。 
 いのち は 律動している。 


 まずは遺伝情報を担う物質DNAについて。 
 犯人の髪の毛から犯人の指紋を割り出すなど、昨今の犯罪捜査に大活躍の 
 DNA。 
 DNAのかたち。 


DNA。 
遺伝情報の暗号を載せたリボンは螺旋を描く。 
二重螺旋は互いに対構造になっているらしい。 
美しい構造。 

「1953年、科学雑誌『ネイチャー』にわずか千語の論文が掲載された。(中略)多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由は、構造のゆるぎない美しさにあった」(本文より抜粋) 

美しい構造。 
機能を明示している構造。 
対になっている2本のリボンは意味を持つ。 
ポジとネガ。 
凸と凹。 
ポジがあればネガをつくれる、ネガがあればポジをつくれる。 

片方の鎖の配列が壊れたとしても、 
相補的なもう一方の鎖で簡単に修復できる。 
つまり、「対構造の二重螺旋」は、情報の安定を担保する という意味を持つ。 

ほどけたそれぞれの鎖を鋳型に、それぞれ新しい鎖をつくれば、ツー・ペアの二重螺旋ができる。 
DNAが一本あれば、同じものを自分でつくりだすことができる。 
つまり、「対構造の二重螺旋」は、自己複製システム を意味する。 


  読みながら「ほうっ」と溜め息が出た。 
  きれいだ。 
  かたちには意味がある。 
  構造が機能を体現する。 

  建築でいうのならば、 
  ダイアグラムから導き出されたカタチ 
  そのカタチが即、構造体でも有る そして余分なものはない。 
  三拍子そろった素敵事態。 
  使い古された言葉を使えば 用・強・美 
  (いや、用・強・形→美 のほうがしっくりくる) 
  そんな建築、滅多にない。 
  というか、今、思いつかない。 

   「構造とは合理性が高いほど美しくなる、と確信しています。 
    これは建築などプロダクト全般に言えるだけでなく、 
    仮想空間内、コンピュータ内の環境においても言えると考えています。」 
    (青春STYLEより抜粋:てらくん、言葉をかりました) 

 コンピューター内の空間については疎い私ですけども、 
 合理的なシステムと、それを成立させるだけの削ぎ落とされたカタチは 
 ほんとに溜め息が出ちゃうほど 美しいと思います。 

さて、DNAに話をもどしまして 
 (対構造の意味は分かったけれども…結局、DNAはなぜ螺旋を描くので しょう?私には分からずじまいでした。…だれか教えてください) 
この二重螺旋の示唆するもの、それは 

「生命とは自己複製を行うシステムである。」 

ということ。 
ほら、自分を型にして、もう一組コピーできるから。ね。 
生命=自己複製を行うシステム 
…20世紀の分子生物学の到達した、ひとつの生命観である。 
さて、上に述べた生命観、生命の定義によれば 
生命体はミクロな精密な部品によりなりたっているプラモデルのようなもの 
となろう。デカルトの機械的生命観にも重なる。 

 しかし、生命体と機械は違うもの だと思う。 

 これは直感的に、多くの人々が共有できる感情なのではないだろうか。 
 たしかにDNAの構造はそばらしく美しいけれど 
 すばらしく美しい構造の部品をすばらしく美しく組み上げたとしても 
 それ=生命 とは考えがたい。 
 人間とアシモは違う。どれだけ精巧な動きをしても、機械は機械で人間ではない。 
 馬とバイク(鉄馬)は違う。馬には生命が宿っているから 
 糸みみずと、糸くずは、ぱっと見は似ていても違う。糸くずには生命はない 

 では、生命とは一体何なのか? 
  
 著者福岡真一は、ルドルフシェーンハイマーという科学者と彼の示した 
 「生命とは動的な平衡状態にある」 
 というキーワードを中心に、様々具体的な実験例を説明し、 
 生命論を説いた。 
 具体的な例や詳細説明は本文にまかせ、 
 抽象的になることを覚悟でざっと概要を説明すると 

シェーンハイマーは、自らの実験結果を元にこう述べている 

「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の新の姿である」 

私たち生命体は、たまたまこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」にすぎない 
それ(私たちの身体を構成する分子、パーツ)は高速で入れ替わり… 
なにしろ秩序は守られるために絶え間なく壊され続けられなければならないので 
古株の細胞、パーツは壊され体外に流れ出てゆき 
食べることで外部から分子を取り込み、出て行く分子との収支を合わせ 
動的平衡をとる 

「私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、 
一時、緩くそこのとどまり、次の瞬間には身体から抜け出ていく(中略) 
つまり私たち生命体の身体は 
プラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、 
パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。」(本文抜粋) 

 この流れ自体が「生きている」ことである 
 私という生命体は 流れそのものである。 

  
 新陳代謝という言葉を普段私たちはなにげなく耳にしている 
 水を飲んで汗をかくこと や 
 古い角質を取り除き、つるつるすべすべのお肌を表面にだすこと 
 それから、建築の世界では黒川紀章さんが 
 建築や都市も新陳代謝させるべきだとのメタボリズムを提唱した。 
 (中銀カプセルタワービル:増築、取替えの可能な建築の例) 

 よって、私は著書を読み「新陳代謝」という仕組みに感動したのではなく 
 「新陳代謝」そのものが、生命そのものだと いう考え方に心惹かれたのだ。 
 持続的な変化 それが 生命。 というひとつの生命観。 

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 
  淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、 
  久しくとどまりたる例なし。(中略)人とすみかとまた同じ」 
  (方丈記 より抜粋) 

  鴨長明の書き綴った人生観、人生論は 
  そのまままるごと生命観、生命論に置き換えることができるのだ。 
  私は、知る人ぞ知る方丈記ジャンキー、興奮しないはずがありません。 


   


 いのち は単なる精密な部品、構造体ではない 
 いのちを 機械的に操作的に扱うことはむずかしい(本文によると不可能) 
  
 いのち とは流れ 
 いのち とは持続的な変化そのもの 

 生命体、つまり いのちのかたち とは 
 その流れの中で動的な平衡をとるもの 
 The dynamic state of body constituents 


  


 いのち すごいや