20190219

プロテアのタトゥ 2019年の100日記,

プロテアのタトゥ。原画を描きました。

It is my pleasure to draw protea that is special plants for Bek. 
Thank you bekfor letting me draw. 
thank you jordy_hooper to make beautiful tattoo from my drawing. 



20190218

民藝フィロソフィ 2019年の100日記,


ロマネスクの美というものが中世の美の一番の基本であり、そして中世の美というものは「真」と一つになっていて、そういう美の極まる処には必ずグロテスクな表現というものが出てくる…民芸はもちろんのこと、工芸及び美術でも、古い時代に帰って原点のような処まで追い求めて行くと、何か宗教的な世界にぶつかる事が多い。日本でも西洋でも、歴史の中で、常に創造的な美の時代が現出する時は、それが常に宗教的な時期と一致してきたことが多い。…そうかと言って殊更にグロテスクな感覚をねらったものは勿論論外である。


松本民藝品にかこまれて、朝のコーヒーをいただきながら読む「通俗民芸論」。朝から、なかなかヘビーな読書時間を楽しんでおります。心の中でツッコミを入れながら読んでいます。著者池田三四郎さんの、師匠柳宗悦さんへの(アツク重めの)敬愛が溢れんばかりにつまった本。

もし万一民芸美を語る師の教えが間違いであったとしても少しも悔いるところはないばかりか、美の法門一宗を創立しようとして、深く浄土門にその裏づけを求めて、無有好醜の願に至って開眼された師の思索と民芸美の原点を具体的な世界の中で明確に解き明かした、その不出世の英明さに何の誤謬があり得よう。…浄土門でいう異安心の世界おちいることがあろうとも、しょせんは生涯ろくでもない虚仮不実な世俗から一歩も出る望みはなかったであろう自己を反省すれば大変な恩寵であったといい得る。 

「松本ホテル花月」滞在中です。先月、2019年1月に初めて宿泊し、とても心地よかったのです。今月2月もまたお世話になることにしました。前回滞在時に読み始め本の続きをと、ロビーのライブラリーへ。以下Webサイトよりホテルのコンセプト文を紹介
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民藝フィロソフィ
松本の日常の記憶
民藝精神にみる他力美 。
それは風土や伝統、そこにある自然の力を借りて、
文化の中に必然として生まれる。
日々絶え間なく永い歴史が重なり、
磨き上げられた名もなき物たち。
そこにあるべくしてある、本当の美しさ。

質素だけれども人間味があり、
水が流れるように自然で、使うほどに親しみが増す。
ありのままにごく自然に居られる時間を。

20190210

お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。2019年100日記

《お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。(2019/2/10)》
語りたい1000の物語を抱えながら、それを伝える相手がいない。それで、真っ白なスケッチブックに向き合っている。と、友人が、私、真子のことを説明してくれた言葉。

口をつぐむことに慣れてしまった。というと、お喋りな真子ちゃんが何を言っているのか、と突っ込む人がいそうだけど、これでもずいぶんと抑えている。本人の感覚としては、100の話したいことがあった時に2、3だけ思っていることを口にする。1人の相手に対して、例えば100日会ううちに2回か3回くらい、ほんとうに心に大事にしまってある扉をあけて本音をそっと差し出してみる。他の98日は呼吸をするようためにお喋りをしている。そこに気持ちや思いがないわけではない。ただ、頭で考える間もなく反射的に口が動いている、そういうイメージだ。それはそれで意識していない分、本音の本音かもしれないから、ややこしい。えぇっと、2回か3回くらいは、意識して、すごく頭で考えながら話す、そういう機会。

2回か3回のチャレンジは、多くの場合大抵うまくいかなくて、その後自分でおそろしくへこむ。本人は、本音を「そっと差し出している」つもりだが、受け取る側は突然バクダンをくらったような、そんなリアクションをされたりもする。何しろ98日分溜め込んでしまってすっかり発酵しきってしまった考えや思いは、ずいぶんと重くなっているらしい。抑えていたものをようやく解放できて少し心が楽になりそうわたしと対照的に、周りはひゃーひゃー大騒ぎになってしまい、そして何故だかわたしは叩かれてしまったりする。語り合いたいことがあったのに、できない。また口をつぐむようになる。すると、その相手には本音を出せる機会がほんとうに全然なくなってしまう。対等なところで向き合って話したいと思っていたのに残念だ、とへこんむ。とてもかなしい。一度や二度ではなく、なんどもそういう事態になるから、きっと何か問題があるのだろう。コミュニケーション下手を痛感している。そして何より「さみしい」と思う。

一方で、2回か3回の限られた機会に、向き合って話をすることが成り立った時には、ものすごく強い喜びを感じる。意見は違って合わない場合も少なくなく、全く合わない価値観で「へぇ」「えぇっ!?」て驚き合える会話はすごく貴重だ。(ついこの間そんな楽しい会話があった。)そういう相手にも、わたしには見せてない部分が98くらいあるのかもしれない…とよく想像したりする。でも相手が抱えている物語のなかの2-3の部分だけでも公開して交換しあえたら、それはきらめく時間で、わたしにとって、喜びそのものだ。長くお付き合いする貴重な大切な人となる。

基本的にいつもどこかで「さみしい」と感じている。「人はそもそも孤独なものだ」という言葉を目にしたり、耳にするたびに、「そうなんだろうなぁ、そうだよなぁ」とうなづく。本や映画やドラマの中で頻繁に見かけるということは「人はそもそも孤独」だと感じている人が古今東西にたくさんいるのだろう。孤独が基本で、気持ちの交換がなかなか成り立たない(分かり会えない、語り合えない)のが普通のことだという前提でいるようになると、少しだけ自分の気持ちが楽になる。年を重ねるにつれ、ちょこっとづつ楽になってきたけど、ただ、同時に諦めることも早くなったような気がする。それがいいことなのかどうかはわからない。

「さみしい」という言葉は、度々わたしの日記に登場する。よく口にしたりもする。口にすると「わたしという友達がいながら、さみしいってどういうこと?」とつめよられたりする。かなしそうな顔をされる時は、申しわけないきもちになる。「人はそもそもさみしい存在かもしれなくて、他の人はさておき、わたし、だいたいいつも、さみしいんだよー。」って言っても通じないかもしれない。「ほんとうにさみしい人はさみしいって言わないんだよ。だから真子ちゃんはほんとうはさみしくないんだ。」と言われたことがある。ほんとうにさみしい、とはいったいどういう気持ちのことをいうんだろうか?とその後しばらく考えて、最近も時々考えてみるけど腑に落ちるこたえにはたどり着けない。ただ自分に言えることとしては、「通じ合えない、語り合えない、でも、通じ合いたい、語り合いたい、うまくできなくて、さみしい」の一文に集約される。

「さみしい」は原動力でもある。さみしいから、通じ合える誰かにつながりたから、描くし、書く。口での会話がうまくできなくて、会話でうまく思いを昇華できなくて、その分の思いのたけを、ぐっとかき出す。とある小説家さんが講演会で-普段の生活で会話がうまくできなくて溜まったフラストレーションを文章に変えて吐き出す-というような内容を話していた。

「文章でおもいを書いて人に見せる、ということを最近ほとんどしていない」と、このところ(ここ4年ほど)よく口にしている。こわい、が、先立っている。以前は、心に思いつくことをそのまま言葉にしていたのに、いつの間にかできなくなった。いや、いつの間にか、ではない、時期については知っている、…帰国のタイミングで、以降できなくなった。「どうしよう全然共感できない、分からない、」と思うものごとが身のまわりに溢れているように感じてしまった。違和感を言葉にすることがうまくできない。だれかを否定することなく、書くにはどうしたらいいのか。好感度が上がりそうな良い子の文章にはならなそうな場合、わざわざ公にしたり、人に伝えたりしなくてもいいのではないか。そりゃそうだ。

とはいえ、頭の中のもの吐き出さないとすごく息苦しい、違和感を伝えないことで違和感のある世界にズブズブと沈んでいく感覚はきもちいいものではない。この状態をなんとか脱却したくて、なんども「書けてないんだ、書きたい」と宣言してみるも書けない。やっぱりこわい。気持ちよく、思い書き連ねている(ように見える)文章に、とても憧れるようになった。そういう理由で、エッセイ/随筆を読むことが多くなった。持って回った言い方や言い訳の少なく、まっすぐ短く言いたいところにキュンと迫る文章を読むとため息がでちゃう。自分にはとてもできないことをしているなぁと。思いを言葉に変えて書き出せて、羨ましい、それが例え100の思いのうちの2か3だとしても。

自分のコミュニケーション下手に落ち込みつつも、もしも、いつでも「通じあえている」「コミュニケーションが成り立っている」と思いながら日々暮らしていたら、今頃どんな自分になっていたんだろう?何もわざわざ苦労して表現活動に時間を割くこともなかったんじゃないだろうか。 世の中の人すべてがコミュニケーション上手で、日々満足していたら、小説も映画も存在しなかったかもしれない。吐き出さずにいられないお喋り好きでお喋り下手が、ものかきや表現者になるのかもしれない。

最近結婚したばかりの夫と話をすることが、とても楽しい。この人には、黙らなくていい、思ったことを飾らず話せばいい。安心して口をひらいている自分がいる。意見の違うことはあれど、その違いをもっと知ろうと聞き出してみたりすると、新しい視点や価値観が自分に加わる。今のところ。(そりゃもしかしたら安らがない事態になることだって、これから先、あるかもしれないけども。)さて、日常の中で会話が心地よくできる時間が増えていったら、わたしはものを書かなくなるのか?答えはnoらしい。現に今、文章を書いている。これからももっと、書きたいなと思うようになった。どうやら、「安心して話していい」相手に存在が、「書きたいのに書けない」の壁をするするほぐしてくれているみたい。1000の物語を抱えているとしたら、ちょっとやそっとじゃ話したいことが尽きることはなさそうだ。

これからもきっと、呼吸をするようにしてお喋りをして、深呼吸がわりに文章を書く。ただし、心の奥の奥のかたい扉があいている時間が、少しだけ長くなりそうだ。

立春、新年を迎えての日記2つ目。今年は100の日記を書けるといいな。
《お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。


20190209

お寺のお庭の木の話 2019年の100日記


<お寺のお庭の木の話(2019/2/9) - 2019年の100日記一つ目>

うねる枝、ポカッと空いた(意図的にあけたのであろう)枝と枝の隙間、樹皮の質感と、密度のあがる葉の中に、ぽぅっと浮かぶような花。凄い。自然に植物の持つ力と、人の手の技の妙の、双方の力が相まってつくりあげる世界観に圧倒されました。宇宙を感じさせる木々のある庭。感動。描きたいなぁ。描きたい。久しぶり心の奥から湧き上がるように描きたくてたまらない枝に出会いました。この枝の剪定をしている人を心から尊敬します、どこのどなただか存じ上げませんが、ありがとうございますと伝えたい。木の枝と人の手がぶつかり合ってというか、積極的に向き合って、せめぎあってうまれたんじゃないかと想像させられる。反対に、遠慮しあっていたり、まぁだいたいバランス取ろうとか、なんとなくいい感じにしようとか、きっとそういうのじゃこの枝に辿りつけないんじゃないだろうか。勝手な想像ですが。

このところiPadとApple pencilとPhotoshopで絵を描くことが増えている。圧倒的なスピード感、変更修正の容易さと、その後の展開の幅広とスムーズさが、“仕事”に向いている。クライアントさんや、ディレクターさんや代理店さんなど、様々な人の要望を汲み取って、ラフ案を作り、ラフに沿って制作をすすめ、完成した絵に修正を重ねて、期限内にゴールに辿りつく、そういう“仕事”にはずいぶん使い勝手がよい。一から手で描き出して、紙の上に世界を構築していく方法だと、ちょっとした修正にうまく対応できなかったりして、時間がかかる。もう一度最初から全部手で描き直す場合も、これまでの“仕事”の場面でよくあった。これまでの苦戦していたことを思うとApple pencilを手に入れたおかげでずいぶんやりやすくなった。“仕事”をするのがとても好きである。色々な人との協力の中で、あっちとこっちの意見のバランスとりながら、このあたりの絵を出したら、みんなストって腑に落ちるかしらの完成形を出せるとホッとする。やりきった感、達成感を感じる。とても好きな作業だ。

対して、“絵を描く”という行為だけを取り出して、私個人の好みでいえば…ラフ案を作るのは好きではない。全然好きじゃない。下描きをするのも嫌いだ。一度下描きで描いたものをもう一度描くなんて、粋じゃないわぁ、と思ってしまっている節がある。書道にずっと慣れ親しんできた幼少期が、私の絵の根底にあることを思うと、身体に染み込ませてしまった経験はそう簡単に消せるものではなさそうだ。「お手本を紙の下にひいてなぞった書」がいかに、魅力に欠けるものなのか、それよりも「真っ白な紙の上、張り詰めて気を入れて生み出されたのびやかな線」がいかに魅力的なのか。

ところで、私も同じ木を何度もスケッチしたりすることもあるし、同じ花を何度も何度も描くこともあった。でもそれは、毎回その木と向き合って感動したことを紙にかきとめているのであって、どれも新しく生み出している。前に描いた絵に修正を加えているわけではない。ドキドキをつめた線を一本ひいて、その線がいきいきとしている様子を眺める、そういう体験をして、あぁ線は本番勝負で描くのがいいと身を持って実感し、いいかたちだぁと心が沸き立つ経験は強烈だ。幼少期だけではなく大学生になっても20代になっても…、何度も重ねてしまた経験があると、そう簡単に線に対する心持ちはかわらない。

美術館をたずねれば、習作をなんども作り、なんども描き直して、本番の絵に取り組んだところその上でもなんども色を塗り重ねて完成までもっていく画家達がたくさんいることも知識として知ってはいる。でも自分にはうまくあてはまらないみたいだ。無理にトライしてみても、下絵と全然違う絵になってしまったりする。だって、今のこの空気感とこの体調のこの手の動きで、この気温とこの光の中でかくなら、こっちに線引いた方がいい…みたいな、そういう、様々な条件にすっと身をまかせると、そういうことになってしまう。“お仕事”ではそういうことでは困ると言われる場合がほとんどだということも分かっている。なので、絵をのびのび描きたがる手を封印して(溢れちゃう時もあるけどなるべく封印して)日々描いている。

繰り返すが、”仕事”は嫌いではない、というかとても好きなことだ。”絵を描く“ことも好きなことだ。ただ不思議なことに”好きを仕事に“しているわけではない。「好きに絵を描く描き方は封印」しがちで、「仕事としての描き方を好きになれるよう、試してみたところ好きになれた」というのが現状だと、自分では分析している。(ごく稀に、全く下絵なしで、修正なしでのびのび描かせてくれる奇跡のような仕事もある、ということメモしておきたい。)実際のお仕事現場でおこることに向き合って折り合いをつけていく、という、言葉にしてみれば当たり前のようだが、そうやって日々絵を描いている。

そういう物分かりの良さそうな絵描きをやっているところに、冒頭の、木である。庭である。圧倒的で、感動的で宇宙的ある木。庭。出会ってしまって、頭に雷が走ったようだった。しっかり向き合って全力で木と自然と対峙する中で生まれたのだろうと思わせるバチバチの枝。物分かり良く、効率よく、問題なく描きあげる私の絵とは対極なきがする、対極、という言葉は違うかも、格が違うというか。

そうして、ただ、描きたいという気持ちが溢れる機会、最近めっきり減っていたことにすら、気づいていなかったことにも気がついた。久しぶりの感覚だ。ただ描きたい、あの枝のうねりを追いかけたい、パワフルな宇宙感を私の手にも体験させてあげたい、と、そういう気持ちだ。もし、スケッチブックとペンを持っていたら、1人で時間がありあまるようにあるのだったとしたら、その場ですぐ描くところだった。持っていたのはiPadとApple pencilで、これでは描けないな、というか、なんというか、「足りないな」と思った。描きたいなー描きたいなーと思いながら、こういうどっかから湧き上がってくるエネルギーをそのまま仕事として有効活用できたらいいのになぁ、とも思った。あぁ、またそうやって効率よく活用しようとか考えてしまう自分に少しがっかりしつつも、やっぱり”仕事として絵を描く“ことが自分にとってすごく大事なのだと改めて発見する。

そんなことを色々考えました。忘れないうちにメモ。家の近くのお寺を巡ってみたところ、偶然出会えたお寺のお庭の木の話。




20190203

「ニャートモコ」さんにてベトナム料理 2019年の100日記,




写真家西澤智子さん のアトリエ「ニャートモコ」に初めてお邪魔しました。光の気持ちいいお部屋!今日はベトナム料理研究所、ユキ先生に教わってベトナム料理に初挑戦。初めて見る調味料を使ってのお料理って、ワクワクしますね。どんな味になるのか想像できなくて!食材の組み合わせや調理方法に、使う道具まで初めてづくし!新鮮。

今日のお料理は
「ラウ・タップ・カーム(ベトナム五目鍋とサテ醬)」「バイン・ミー・ハップ(豚ひき肉のせ蒸しバインミー)」「チェー・ナム・トゥイット(白きくらげのチェー)」なんだかとても爽やかで、優しい印象のお料理たちでした。野菜もたっぷり食べられてしあわせ。ベトナム料理、いいですね、クセになりそう…夕飯(外食)もベトナム料理頂きました。お店でも、初めて食べるお料理出てきまして興奮。


これまで知らなかった世界の扉をちょこっとあけた気分です。ありがとうございます。ご馳走さまでした。家でも作ってみようと思います。何から作ろうかなー 蒸しバインミーかなー。