20190210

お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。2019年100日記

《お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。(2019/2/10)》
語りたい1000の物語を抱えながら、それを伝える相手がいない。それで、真っ白なスケッチブックに向き合っている。と、友人が、私、真子のことを説明してくれた言葉。

口をつぐむことに慣れてしまった。というと、お喋りな真子ちゃんが何を言っているのか、と突っ込む人がいそうだけど、これでもずいぶんと抑えている。本人の感覚としては、100の話したいことがあった時に2、3だけ思っていることを口にする。1人の相手に対して、例えば100日会ううちに2回か3回くらい、ほんとうに心に大事にしまってある扉をあけて本音をそっと差し出してみる。他の98日は呼吸をするようためにお喋りをしている。そこに気持ちや思いがないわけではない。ただ、頭で考える間もなく反射的に口が動いている、そういうイメージだ。それはそれで意識していない分、本音の本音かもしれないから、ややこしい。えぇっと、2回か3回くらいは、意識して、すごく頭で考えながら話す、そういう機会。

2回か3回のチャレンジは、多くの場合大抵うまくいかなくて、その後自分でおそろしくへこむ。本人は、本音を「そっと差し出している」つもりだが、受け取る側は突然バクダンをくらったような、そんなリアクションをされたりもする。何しろ98日分溜め込んでしまってすっかり発酵しきってしまった考えや思いは、ずいぶんと重くなっているらしい。抑えていたものをようやく解放できて少し心が楽になりそうわたしと対照的に、周りはひゃーひゃー大騒ぎになってしまい、そして何故だかわたしは叩かれてしまったりする。語り合いたいことがあったのに、できない。また口をつぐむようになる。すると、その相手には本音を出せる機会がほんとうに全然なくなってしまう。対等なところで向き合って話したいと思っていたのに残念だ、とへこんむ。とてもかなしい。一度や二度ではなく、なんどもそういう事態になるから、きっと何か問題があるのだろう。コミュニケーション下手を痛感している。そして何より「さみしい」と思う。

一方で、2回か3回の限られた機会に、向き合って話をすることが成り立った時には、ものすごく強い喜びを感じる。意見は違って合わない場合も少なくなく、全く合わない価値観で「へぇ」「えぇっ!?」て驚き合える会話はすごく貴重だ。(ついこの間そんな楽しい会話があった。)そういう相手にも、わたしには見せてない部分が98くらいあるのかもしれない…とよく想像したりする。でも相手が抱えている物語のなかの2-3の部分だけでも公開して交換しあえたら、それはきらめく時間で、わたしにとって、喜びそのものだ。長くお付き合いする貴重な大切な人となる。

基本的にいつもどこかで「さみしい」と感じている。「人はそもそも孤独なものだ」という言葉を目にしたり、耳にするたびに、「そうなんだろうなぁ、そうだよなぁ」とうなづく。本や映画やドラマの中で頻繁に見かけるということは「人はそもそも孤独」だと感じている人が古今東西にたくさんいるのだろう。孤独が基本で、気持ちの交換がなかなか成り立たない(分かり会えない、語り合えない)のが普通のことだという前提でいるようになると、少しだけ自分の気持ちが楽になる。年を重ねるにつれ、ちょこっとづつ楽になってきたけど、ただ、同時に諦めることも早くなったような気がする。それがいいことなのかどうかはわからない。

「さみしい」という言葉は、度々わたしの日記に登場する。よく口にしたりもする。口にすると「わたしという友達がいながら、さみしいってどういうこと?」とつめよられたりする。かなしそうな顔をされる時は、申しわけないきもちになる。「人はそもそもさみしい存在かもしれなくて、他の人はさておき、わたし、だいたいいつも、さみしいんだよー。」って言っても通じないかもしれない。「ほんとうにさみしい人はさみしいって言わないんだよ。だから真子ちゃんはほんとうはさみしくないんだ。」と言われたことがある。ほんとうにさみしい、とはいったいどういう気持ちのことをいうんだろうか?とその後しばらく考えて、最近も時々考えてみるけど腑に落ちるこたえにはたどり着けない。ただ自分に言えることとしては、「通じ合えない、語り合えない、でも、通じ合いたい、語り合いたい、うまくできなくて、さみしい」の一文に集約される。

「さみしい」は原動力でもある。さみしいから、通じ合える誰かにつながりたから、描くし、書く。口での会話がうまくできなくて、会話でうまく思いを昇華できなくて、その分の思いのたけを、ぐっとかき出す。とある小説家さんが講演会で-普段の生活で会話がうまくできなくて溜まったフラストレーションを文章に変えて吐き出す-というような内容を話していた。

「文章でおもいを書いて人に見せる、ということを最近ほとんどしていない」と、このところ(ここ4年ほど)よく口にしている。こわい、が、先立っている。以前は、心に思いつくことをそのまま言葉にしていたのに、いつの間にかできなくなった。いや、いつの間にか、ではない、時期については知っている、…帰国のタイミングで、以降できなくなった。「どうしよう全然共感できない、分からない、」と思うものごとが身のまわりに溢れているように感じてしまった。違和感を言葉にすることがうまくできない。だれかを否定することなく、書くにはどうしたらいいのか。好感度が上がりそうな良い子の文章にはならなそうな場合、わざわざ公にしたり、人に伝えたりしなくてもいいのではないか。そりゃそうだ。

とはいえ、頭の中のもの吐き出さないとすごく息苦しい、違和感を伝えないことで違和感のある世界にズブズブと沈んでいく感覚はきもちいいものではない。この状態をなんとか脱却したくて、なんども「書けてないんだ、書きたい」と宣言してみるも書けない。やっぱりこわい。気持ちよく、思い書き連ねている(ように見える)文章に、とても憧れるようになった。そういう理由で、エッセイ/随筆を読むことが多くなった。持って回った言い方や言い訳の少なく、まっすぐ短く言いたいところにキュンと迫る文章を読むとため息がでちゃう。自分にはとてもできないことをしているなぁと。思いを言葉に変えて書き出せて、羨ましい、それが例え100の思いのうちの2か3だとしても。

自分のコミュニケーション下手に落ち込みつつも、もしも、いつでも「通じあえている」「コミュニケーションが成り立っている」と思いながら日々暮らしていたら、今頃どんな自分になっていたんだろう?何もわざわざ苦労して表現活動に時間を割くこともなかったんじゃないだろうか。 世の中の人すべてがコミュニケーション上手で、日々満足していたら、小説も映画も存在しなかったかもしれない。吐き出さずにいられないお喋り好きでお喋り下手が、ものかきや表現者になるのかもしれない。

最近結婚したばかりの夫と話をすることが、とても楽しい。この人には、黙らなくていい、思ったことを飾らず話せばいい。安心して口をひらいている自分がいる。意見の違うことはあれど、その違いをもっと知ろうと聞き出してみたりすると、新しい視点や価値観が自分に加わる。今のところ。(そりゃもしかしたら安らがない事態になることだって、これから先、あるかもしれないけども。)さて、日常の中で会話が心地よくできる時間が増えていったら、わたしはものを書かなくなるのか?答えはnoらしい。現に今、文章を書いている。これからももっと、書きたいなと思うようになった。どうやら、「安心して話していい」相手に存在が、「書きたいのに書けない」の壁をするするほぐしてくれているみたい。1000の物語を抱えているとしたら、ちょっとやそっとじゃ話したいことが尽きることはなさそうだ。

これからもきっと、呼吸をするようにしてお喋りをして、深呼吸がわりに文章を書く。ただし、心の奥の奥のかたい扉があいている時間が、少しだけ長くなりそうだ。

立春、新年を迎えての日記2つ目。今年は100の日記を書けるといいな。
《お喋り好きのお喋り下手。コミュニケーション苦手なさみしがりやと、表現の話。


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