20190209

お寺のお庭の木の話 2019年の100日記


<お寺のお庭の木の話(2019/2/9) - 2019年の100日記一つ目>

うねる枝、ポカッと空いた(意図的にあけたのであろう)枝と枝の隙間、樹皮の質感と、密度のあがる葉の中に、ぽぅっと浮かぶような花。凄い。自然に植物の持つ力と、人の手の技の妙の、双方の力が相まってつくりあげる世界観に圧倒されました。宇宙を感じさせる木々のある庭。感動。描きたいなぁ。描きたい。久しぶり心の奥から湧き上がるように描きたくてたまらない枝に出会いました。この枝の剪定をしている人を心から尊敬します、どこのどなただか存じ上げませんが、ありがとうございますと伝えたい。木の枝と人の手がぶつかり合ってというか、積極的に向き合って、せめぎあってうまれたんじゃないかと想像させられる。反対に、遠慮しあっていたり、まぁだいたいバランス取ろうとか、なんとなくいい感じにしようとか、きっとそういうのじゃこの枝に辿りつけないんじゃないだろうか。勝手な想像ですが。

このところiPadとApple pencilとPhotoshopで絵を描くことが増えている。圧倒的なスピード感、変更修正の容易さと、その後の展開の幅広とスムーズさが、“仕事”に向いている。クライアントさんや、ディレクターさんや代理店さんなど、様々な人の要望を汲み取って、ラフ案を作り、ラフに沿って制作をすすめ、完成した絵に修正を重ねて、期限内にゴールに辿りつく、そういう“仕事”にはずいぶん使い勝手がよい。一から手で描き出して、紙の上に世界を構築していく方法だと、ちょっとした修正にうまく対応できなかったりして、時間がかかる。もう一度最初から全部手で描き直す場合も、これまでの“仕事”の場面でよくあった。これまでの苦戦していたことを思うとApple pencilを手に入れたおかげでずいぶんやりやすくなった。“仕事”をするのがとても好きである。色々な人との協力の中で、あっちとこっちの意見のバランスとりながら、このあたりの絵を出したら、みんなストって腑に落ちるかしらの完成形を出せるとホッとする。やりきった感、達成感を感じる。とても好きな作業だ。

対して、“絵を描く”という行為だけを取り出して、私個人の好みでいえば…ラフ案を作るのは好きではない。全然好きじゃない。下描きをするのも嫌いだ。一度下描きで描いたものをもう一度描くなんて、粋じゃないわぁ、と思ってしまっている節がある。書道にずっと慣れ親しんできた幼少期が、私の絵の根底にあることを思うと、身体に染み込ませてしまった経験はそう簡単に消せるものではなさそうだ。「お手本を紙の下にひいてなぞった書」がいかに、魅力に欠けるものなのか、それよりも「真っ白な紙の上、張り詰めて気を入れて生み出されたのびやかな線」がいかに魅力的なのか。

ところで、私も同じ木を何度もスケッチしたりすることもあるし、同じ花を何度も何度も描くこともあった。でもそれは、毎回その木と向き合って感動したことを紙にかきとめているのであって、どれも新しく生み出している。前に描いた絵に修正を加えているわけではない。ドキドキをつめた線を一本ひいて、その線がいきいきとしている様子を眺める、そういう体験をして、あぁ線は本番勝負で描くのがいいと身を持って実感し、いいかたちだぁと心が沸き立つ経験は強烈だ。幼少期だけではなく大学生になっても20代になっても…、何度も重ねてしまた経験があると、そう簡単に線に対する心持ちはかわらない。

美術館をたずねれば、習作をなんども作り、なんども描き直して、本番の絵に取り組んだところその上でもなんども色を塗り重ねて完成までもっていく画家達がたくさんいることも知識として知ってはいる。でも自分にはうまくあてはまらないみたいだ。無理にトライしてみても、下絵と全然違う絵になってしまったりする。だって、今のこの空気感とこの体調のこの手の動きで、この気温とこの光の中でかくなら、こっちに線引いた方がいい…みたいな、そういう、様々な条件にすっと身をまかせると、そういうことになってしまう。“お仕事”ではそういうことでは困ると言われる場合がほとんどだということも分かっている。なので、絵をのびのび描きたがる手を封印して(溢れちゃう時もあるけどなるべく封印して)日々描いている。

繰り返すが、”仕事”は嫌いではない、というかとても好きなことだ。”絵を描く“ことも好きなことだ。ただ不思議なことに”好きを仕事に“しているわけではない。「好きに絵を描く描き方は封印」しがちで、「仕事としての描き方を好きになれるよう、試してみたところ好きになれた」というのが現状だと、自分では分析している。(ごく稀に、全く下絵なしで、修正なしでのびのび描かせてくれる奇跡のような仕事もある、ということメモしておきたい。)実際のお仕事現場でおこることに向き合って折り合いをつけていく、という、言葉にしてみれば当たり前のようだが、そうやって日々絵を描いている。

そういう物分かりの良さそうな絵描きをやっているところに、冒頭の、木である。庭である。圧倒的で、感動的で宇宙的ある木。庭。出会ってしまって、頭に雷が走ったようだった。しっかり向き合って全力で木と自然と対峙する中で生まれたのだろうと思わせるバチバチの枝。物分かり良く、効率よく、問題なく描きあげる私の絵とは対極なきがする、対極、という言葉は違うかも、格が違うというか。

そうして、ただ、描きたいという気持ちが溢れる機会、最近めっきり減っていたことにすら、気づいていなかったことにも気がついた。久しぶりの感覚だ。ただ描きたい、あの枝のうねりを追いかけたい、パワフルな宇宙感を私の手にも体験させてあげたい、と、そういう気持ちだ。もし、スケッチブックとペンを持っていたら、1人で時間がありあまるようにあるのだったとしたら、その場ですぐ描くところだった。持っていたのはiPadとApple pencilで、これでは描けないな、というか、なんというか、「足りないな」と思った。描きたいなー描きたいなーと思いながら、こういうどっかから湧き上がってくるエネルギーをそのまま仕事として有効活用できたらいいのになぁ、とも思った。あぁ、またそうやって効率よく活用しようとか考えてしまう自分に少しがっかりしつつも、やっぱり”仕事として絵を描く“ことが自分にとってすごく大事なのだと改めて発見する。

そんなことを色々考えました。忘れないうちにメモ。家の近くのお寺を巡ってみたところ、偶然出会えたお寺のお庭の木の話。




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