20080424

空の「あお」と草の「あお」のあいだに


生まれ故郷ではなくとも、好きなまちがあります。 

くねくねと曲がった坂の小道に、生い茂る緑が陰を落とした五月、 
そこかしこで茶香炉がたかれていたその日、 
香ばしいにおいに誘われるように、細い道の奥へ奥へと。 
おそるおそる覗いてまわった工房で、様々な陶芸家さんたちが聞かせてくれた、 
焼き物のこと、窯のなかでおきる物語、炎と色の話がとてもとても魅力的で。 
いつか自分で常滑の茶香炉を買うのだと心に決めたのは 
はじめて訪れた、高校生の頃。 

焼き物のまち、常滑。 

大学生になり行動範囲を広げた私はちょこちょこと常滑に通った。 
初めて買った器は、「深紅(しんしゃ)」の出来損ない。 
その名のとおり、深い紅が美しい器は 
窯を閉じて高温で焼くことで生まれるのだという。 
同じ釉薬を塗った器を、窯をあけて空気をたっぷりおくりこみながら焼き上げると 
紅から一転、織部にみられるような深い緑になるのだと、教えてもらった。 
「これが、紅、こっちが緑。釉薬は同じ。」 
ぽんと手に持たせてくれた、全く違う色の二つの器。 
ふと目を移すと、深く重厚な色の間に 
消え入りそうに透明な「あお」がひとつ。 
「深紅のはずが、紅くならなくてね。かといって緑にもならず。これは失敗」 
といったその器の、ゆるりと薄衣を纏ったかのような気張らなさが気に入って 
私はその器を買った。 

二十歳の初夏。 
また縁あって。 
アメリカからきた何人かの人たちと、常滑を散歩した。 
ゆるゆるとおしゃべりしながらのお散歩は楽しかった。 
一行の中にひとり、フランクロイドライトを敬愛する若い建築家が 
博物館に展示してあるテラコッタの破片を熱心に眺め、あれこれと語ってくれた。 
ライトの旧帝国ホテルの、あの黄褐色のレンガ(縦に筋が細かく入ったあれ)は 
この、常滑で焼かれたものだ。 
彼のつくったモザイク模様(?)を見ながら、なんのかんのと話した。 
私の語学がもう少し堪能であったならばと、悔やまれてならない。 
そして、たどたどしい英語のくせに熱弁をふるう私を 
にこにこと優しくサポートしてくれたのは 
甘い笑顔がかわいい、同じ年の獣医のタマゴ、ジョン! 
常滑はジョンに出会ったまち。 

今年年明け早々に、芸工の先輩に誘われて混じった「新年会」は 
常滑の陶芸家さんを囲むものだったし 
先週もその陶芸家さん主催の「自家製ビールと山車祭を楽しむ会」で 
まったりしてきたところだ。 
このまちの穏やかな空気と、人が好きだ。 
器と、手料理と、酒と、わいわいとした空気が好きな面々が集まるみたい。 
常滑には、日本各地だけでなく、海外からも作家さんが移り住んでいる。 
なんともあたたかな、来るもの拒まないオープンなまち。 



                




そんな常滑で 
窯元や陶芸家のつくった器を集め、ギャラリーに並べて、売る、 
先祖代々「焼き物売り」をしている方の、お宅にお邪魔した。 
「どーもはじめまして。あ、これ、お土産です。うちの庭の夏みかん。」 
「どーもどーも。まま、座って、座って。」 
初対面でもすぐに馴染み、居心地よく感じられるのが良い。嬉しい。 
明るい笑顔の絶えない若夫婦2人の、おいしい手料理をいただきながら 
尽きることのない、おしゃべりが楽しい。 

黒光りする薄い楕円の深皿にザクザクと盛られた新鮮な野菜のサラダに 
同じ皿に品よく収まった鮪の刺身には、魚ダシの醤油を合わせて。 
ぽってりと厚みのある小鉢のツナと玉葱のペーストをクラッカーにのせ、 
日本の南はじの方の窯からやってきた小皿に施された 
細かなヒダは、装飾だけでなく滑り止めになるのだな、と納得しつつ 
その繊細な模様が大胆な手法で描かれることを聞いてほほーと驚き。 
手におさまったときの重さがちょうど心地よい小さなボゥルに盛られた 
ベーコンの旨みがきいた小さなチーズパン(?)(先輩の手作り)は酒のツマミにぴったりで、 
ただ、私のもつ乳白色のコップに注ぐのはお酒でなくお茶…ちょこっと寂しい。 
潮干狩りしてきたとこ、というアサリの酒蒸しに伸びる手が止まらず、 
料理をするだんなさんていいなー、とパスタをつくる男の姿を羨ましく眺めて。 
食後には、先輩の手作り濃厚でしっとりとしたチョコレートバナナタルトに、 
ころっとしたまぁるいフォルムと、ざらっとした手触りが和むコーヒーカップでほっとぬくもる。 

あー美味しい。しあわせだわぁ。 
ふくふく、くふふ…といった心持で 
飲んでもないのにきもちよーくなってゆらゆらしながら器を物色。 
さすが「焼き物売り」を生業にしているだけあって、食器棚には器がたくさん。 
あれこれ手にとって、触って、光にあてて、とんと床に置いてみて… 

「焼き物売り」は「生き方売り」だと言う若旦那が 
すごくイイ顔をして、嬉しそうに愛しそうに、 
ひとつひとつの器のストーリーを語ってくれた。 

「これはOさんという人のつくった器。これが、おもしろい人で(ぷぷっ)(←思い出し笑してる) 
…まぁ、色々あるんだけど若いのに達観しちゃった僧侶みたいな人なんだ。」 
Oさんという人がどんなにおもしろい人なのか、 
伝説になりそうなとんでもない経験をいくつか経たのち、 
物事をどんなふうに捉える様になったのか、 
またそんな彼に相談ごとをしたときの、突拍子の無い返答や 
おちゃめなくせに苦悩して生み出された、アーティストとしての創作物と 
生業としての器作り、そして、今の暮らし方。 
語り口調があまりにおかしくて、笑いながら話に耳を傾けていたが 
かるく語っている話が濃く深く、底が見えない。 
これはOさんに一度、お会いしなくては…と思う。世の中なんと楽しい人がいることだろう。 
「だから、私達は、この器を“Oさんの托鉢”って呼んでるんだよねっ」 
と若奥さんが、ついっっと出してくれたお椀は 
土なのに金属のような、滑らかな光沢をもった、 
うすくて軽いのに重い、漆黒の宇宙のような器だった。 
Oさんの思想の塊のよう。 


                   半月ぴかぴか(新しい) 


「実は作家のつくるもの、よりも、民藝に惹かれとるんだわぁ」 
と、三河弁によく似た方言が落ち着く彼が、ほらほらと見せてくれたのは、 
シマウマのような模様が可愛らしい小皿。 
一枚の値段がなんとたったの三桁。300円。 
陶芸作家が名前を出して売ると、ゼロが、1個2個平気で増えるのに。 
型をとって焼く、工場で大量に生産される器が安く手に入る昨今 
今なお、手仕事で実用のもの、日用品をつくっている窯があるとは。 
そんな仕事が生き残っているとは…と驚き感じ入りながら 
その器の波打つ表面を撫でる。 
「おんた焼き」というのだそうだ。おんたには、今も昔も窯元は10しかない。 
増やさない。減らさない。 
世襲制がしっかりと残っているその村では、長男が跡を継ぐと決まっているのだそうだ。 
来るもの拒まず、だれでも陶芸を始められるオープンな常滑と違い 
この村では外部からの人を受け付けないのだそうだ。 
田舎出身の私としては、田舎独特の閉鎖的で封建的な雰囲気に 
つい、ネガティブなイメージを抱いてしまうが 
「だからこそ、技と質が保たれている。良いものが、きちんとのこり、続いている」 
のだろう。確かに。 

対照的なのが、南の、とある町。 
都会の暮らしに疲れた人がふらっと訪れて癒されるようなまち。 
常滑と同じように、オープンなその窯辺りに訪ねてくる若者は多いようだ。 
「自分探しにきた若者」がそのまま居ついて、 
「なんとなく手づくり風」にわざと素朴っぽくゆがませたりしてつくった器ほど 
見るに耐えないものはない。と思う。(嫌みな言い方になってしまって申し訳ない) 
個人の趣味として楽しむ分にはいいのだけれど、 
そういう「ヘタウマをねらった」ものにかぎって、結構なお値段がついて 
「ぎゃらり〜」にならんでいるから不思議だ。 

焼き物に限らず「手作り雑貨の店」を謳ったお店でも、 
似たような違和感を感じるときがある。あたたかないい仕事に混じって 
高い値段のついた素人の「作品」。うぅ〜〜〜ん。この作りでこの値段… 
「手作り」であれば何でもいいというわけではなかろうに。 
同じことが、書にも当てはまる。 
あいだみつおさんブーム以来、どうも「ヘタウマ」な文字が蔓延しすぎていやしないか。 
ちょっと崩してかけば、それなりにうまそうに見えるだろう、なんて安易な。 
「ほんとに基礎がきちんとしていてきれいに書ける人」が遊んだ文字とは 
一目瞭然、ぜんっぜん違うのに。 
母や妹が書を嗜むのを眺めているだけで、私は書かない、書けないのだから 
偉そうなこと言っちゃいかんのだろうけど…でももう一度繰り返したい 
趣味でやるぶんには全然構わないと思う。仲間内で楽しんだりとか。 
ただそれに、びっくりするよなお値段つけて奉るのはいかがなものかと。 
真剣にその道を極めた、または極めようとしている人に失礼ではないかと思うんです。 

一枚、300円の、おんた焼き の器を手に 
熱くなった話は、止めることがむずかしく、 
夜はどんどん更けていった。 


                   満月ぴかぴか(新しい) 


その日、夜遅くに家に帰った私は、家の食器棚を眺めた。 
まったく高価なものはなく、引き出物や、春のパン祭のお皿などが並ぶが 
しげしげと眺めてみると、和食器、それも焼き物の占める割合が多いことに気がついた。 
手前に陣取っている、普段の食事で良くつかうものはほとんど、焼き物だ。 
ぽってりと少し厚く、重みのあるもので、 
真っ白ではなく、色味のあるもの。 
自分の趣味だと思っていたけど、どうやら、母の趣味が私に染み付いただけみたいだ。 
母がどこからか買ってきた器のなかに、いくつか私の選んだものも混じる。 
「大好きなまちで、あの時あの窯で、あんな顔したひとのつくった器」 
だと思い出すと、きゅんと愛情が溢れてくる。 
それぞれの器に、ストーリーがある。 
それぞれ個性があって、愛い奴らだ。 

「生き方売り」なのだと言っていた人との話を反芻しながら考える。 
インターネットで、たいていなんでも買えちゃう今、 
店頭にものを並べて、人対人で売ることの意味 
窯のある地へ赴き、人対人で器を買うことの意味。 
そこに意味を見出せない店は、時代の流れに押されて消え去っていくだろう。 
潰れる前に、潔く店をたたんで早いとこネットショップに転向するのも手かもしれない。 
一方で、「人対人」の商売を大切に、真摯に仕事をしている店が必ず生き残れる保証は無い。 
ただ器をうるのではなく、その器がうまれる背景や過程、 
しいてはその陶芸家や、窯元の考え方や生き方まで語ってくれるこの人の店は素敵だ。 
今の時代の人には、うっとおしく暑苦しいんだろうか。いや、そんなことない。 
画面越しのやり取りに慣れた人ほど、FACE to FACE のやり取りを 
五感をフルにつかった体験を求めているんじゃないだろうか。 
無意識のうちで。きっと。 

マジメに、いい仕事をする小さな窯元が、つづけられなくなるのはかなしいな、と思う。 
マジメに、いい仕事をしている店がやっていけなくなるのは、さみしいなと、思う。 
真剣で真面目な仕事人は、応援したいなぁ となんとなく思う。 

…ちょっとアツくなってみたりして 
そんな自分に照れながら、キッチンチェック。 

この鍋、なに作ってるのかなーと、台所のお鍋のふたをあけると 
たくさんの筍が、アク抜きされていた。 
「そうか、もう筍の季節か」と蓋を閉め 
となりのお鍋のふたを開けると、 
ふわっといい香が立ち上った。 
たっぷりお鍋のそこには、煮干と鰹節が沈んでいる。 
一晩静かに寝かせると、おいしいおダシがとれるのだ。 
「おぉっと、母さん、コレは本気モードだね。」 
と、にやにやしながら蓋を閉じる。 
丁寧につくられた料理がどんなに美味しいかを知ってしまっている私には 
できあがる味を想像するだけで幸せになれる。次の日の楽しみができた。 


              ぴかぴか(新しい) ぴかぴか(新しい) ぴかぴか(新しい) 


ふと、 
筍の煮物を盛るなら、あの器がぴったりじゃないかな、と思いついた。 
自称「生き方売り」の「焼き物売り」さんのご自宅の食器棚にあったあのお皿。 
わたしの大好きなまち、常滑の陶芸家さんの手によるもの。 
「青という漢字はどうやって出来たか知っている?」の人。 
「空の“あお”と草の“あお”のあいだの色」 
を追い求め、器で表現しようとしているロマンチストさんがつくった 
きもちのよい「あお」の焼き物。 


空のような、草のような、あおの器に 
丁寧に煮付けられた筍の盛られた姿を想像し 
台所で一人、妄想世界にトリップしてしまった私は 
んふふふんふふとしばらく笑いがとまらなかった