20071212

いのちのかたち

分子生物学者、福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」を読んだ。 
時間の都合によりいつもと違う本屋さんへ。 
本屋さんにて左手、てのひらに本を持ち、 
腕に手帳をのせ肘を少し曲げて固定し 
右手でメモをとりながら立ち読みしていたら  
あからさまに不愉快な顔をした店員に怒られた。 
いつもの本屋さんだと怒られないのに……。 
仕方がないので、めずらしく本を買った。 
税別740円の本をレジへ持っていく。 
777円。 
ちょっと嬉しくなった。 

高校で生物を勉強していない超初心者の私が 
初心者なりに(初心者だからこそ?)心動かされた 
いのち のはなし。  




聞いて聞いて、 
 いのちのかたち ってすごいの。 
 きれい。それにロマンに溢れているのよ。(陳腐な言葉だけど…) 

 いのち は 美しい。 
 いのち は 律動している。 


 まずは遺伝情報を担う物質DNAについて。 
 犯人の髪の毛から犯人の指紋を割り出すなど、昨今の犯罪捜査に大活躍の 
 DNA。 
 DNAのかたち。 


DNA。 
遺伝情報の暗号を載せたリボンは螺旋を描く。 
二重螺旋は互いに対構造になっているらしい。 
美しい構造。 

「1953年、科学雑誌『ネイチャー』にわずか千語の論文が掲載された。(中略)多くの人々が、この天啓を目の当たりにしたと同時にその正当性を信じた理由は、構造のゆるぎない美しさにあった」(本文より抜粋) 

美しい構造。 
機能を明示している構造。 
対になっている2本のリボンは意味を持つ。 
ポジとネガ。 
凸と凹。 
ポジがあればネガをつくれる、ネガがあればポジをつくれる。 

片方の鎖の配列が壊れたとしても、 
相補的なもう一方の鎖で簡単に修復できる。 
つまり、「対構造の二重螺旋」は、情報の安定を担保する という意味を持つ。 

ほどけたそれぞれの鎖を鋳型に、それぞれ新しい鎖をつくれば、ツー・ペアの二重螺旋ができる。 
DNAが一本あれば、同じものを自分でつくりだすことができる。 
つまり、「対構造の二重螺旋」は、自己複製システム を意味する。 


  読みながら「ほうっ」と溜め息が出た。 
  きれいだ。 
  かたちには意味がある。 
  構造が機能を体現する。 

  建築でいうのならば、 
  ダイアグラムから導き出されたカタチ 
  そのカタチが即、構造体でも有る そして余分なものはない。 
  三拍子そろった素敵事態。 
  使い古された言葉を使えば 用・強・美 
  (いや、用・強・形→美 のほうがしっくりくる) 
  そんな建築、滅多にない。 
  というか、今、思いつかない。 

   「構造とは合理性が高いほど美しくなる、と確信しています。 
    これは建築などプロダクト全般に言えるだけでなく、 
    仮想空間内、コンピュータ内の環境においても言えると考えています。」 
    (青春STYLEより抜粋:てらくん、言葉をかりました) 

 コンピューター内の空間については疎い私ですけども、 
 合理的なシステムと、それを成立させるだけの削ぎ落とされたカタチは 
 ほんとに溜め息が出ちゃうほど 美しいと思います。 

さて、DNAに話をもどしまして 
 (対構造の意味は分かったけれども…結局、DNAはなぜ螺旋を描くので しょう?私には分からずじまいでした。…だれか教えてください) 
この二重螺旋の示唆するもの、それは 

「生命とは自己複製を行うシステムである。」 

ということ。 
ほら、自分を型にして、もう一組コピーできるから。ね。 
生命=自己複製を行うシステム 
…20世紀の分子生物学の到達した、ひとつの生命観である。 
さて、上に述べた生命観、生命の定義によれば 
生命体はミクロな精密な部品によりなりたっているプラモデルのようなもの 
となろう。デカルトの機械的生命観にも重なる。 

 しかし、生命体と機械は違うもの だと思う。 

 これは直感的に、多くの人々が共有できる感情なのではないだろうか。 
 たしかにDNAの構造はそばらしく美しいけれど 
 すばらしく美しい構造の部品をすばらしく美しく組み上げたとしても 
 それ=生命 とは考えがたい。 
 人間とアシモは違う。どれだけ精巧な動きをしても、機械は機械で人間ではない。 
 馬とバイク(鉄馬)は違う。馬には生命が宿っているから 
 糸みみずと、糸くずは、ぱっと見は似ていても違う。糸くずには生命はない 

 では、生命とは一体何なのか? 
  
 著者福岡真一は、ルドルフシェーンハイマーという科学者と彼の示した 
 「生命とは動的な平衡状態にある」 
 というキーワードを中心に、様々具体的な実験例を説明し、 
 生命論を説いた。 
 具体的な例や詳細説明は本文にまかせ、 
 抽象的になることを覚悟でざっと概要を説明すると 

シェーンハイマーは、自らの実験結果を元にこう述べている 

「生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の新の姿である」 

私たち生命体は、たまたまこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」にすぎない 
それ(私たちの身体を構成する分子、パーツ)は高速で入れ替わり… 
なにしろ秩序は守られるために絶え間なく壊され続けられなければならないので 
古株の細胞、パーツは壊され体外に流れ出てゆき 
食べることで外部から分子を取り込み、出て行く分子との収支を合わせ 
動的平衡をとる 

「私たちが食べた分子は、瞬く間に全身に散らばり、 
一時、緩くそこのとどまり、次の瞬間には身体から抜け出ていく(中略) 
つまり私たち生命体の身体は 
プラモデルのような静的なパーツから成り立っている分子機械ではなく、 
パーツ自体のダイナミックな流れの中に成り立っている。」(本文抜粋) 

 この流れ自体が「生きている」ことである 
 私という生命体は 流れそのものである。 

  
 新陳代謝という言葉を普段私たちはなにげなく耳にしている 
 水を飲んで汗をかくこと や 
 古い角質を取り除き、つるつるすべすべのお肌を表面にだすこと 
 それから、建築の世界では黒川紀章さんが 
 建築や都市も新陳代謝させるべきだとのメタボリズムを提唱した。 
 (中銀カプセルタワービル:増築、取替えの可能な建築の例) 

 よって、私は著書を読み「新陳代謝」という仕組みに感動したのではなく 
 「新陳代謝」そのものが、生命そのものだと いう考え方に心惹かれたのだ。 
 持続的な変化 それが 生命。 というひとつの生命観。 

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 
  淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、 
  久しくとどまりたる例なし。(中略)人とすみかとまた同じ」 
  (方丈記 より抜粋) 

  鴨長明の書き綴った人生観、人生論は 
  そのまままるごと生命観、生命論に置き換えることができるのだ。 
  私は、知る人ぞ知る方丈記ジャンキー、興奮しないはずがありません。 


   


 いのち は単なる精密な部品、構造体ではない 
 いのちを 機械的に操作的に扱うことはむずかしい(本文によると不可能) 
  
 いのち とは流れ 
 いのち とは持続的な変化そのもの 

 生命体、つまり いのちのかたち とは 
 その流れの中で動的な平衡をとるもの 
 The dynamic state of body constituents 


  


 いのち すごいや 

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