20191031

2019年の100日記,



朝。洗濯物を干したついでに庭の植物の朝陽にきらめくのを眺める。虫に喰われた葉っぱを持ち、チョンと切り落とされた花の穂は一部私の身体に入った印で、それでもスウィートバジルは生きて成長を続け、花弁を落とし種をこぼしている。ものすごいことだと、なんだか胸がいっぱいになる。


秋である。毎年感傷に浸りやすいけれど、今年はとくに。このところ心が弱々で、些細なことにきずつきかなしみ、ついでに記憶のなかから「かなしい」とタグづけられた引き出しを片っ端からあけて追体験してはへこんでいる。ここ数年分溜め込んできた傷が全て、秋風のもとに晒されているかのようだ。我が身に起こったことのみにあらず、新聞の端のニュースに愕然とし、人間というものの業の深さや愚かさを嘆くと共に、あぁ自分もその人間だと胸が苦しくなる。災害や気候変動から、氷河期や、気候がかわり絶滅した動物のさいごを想像したりしてしまうともう頭の中がグルングルンと揺れ出す。しまいには、網戸とガラス窓に挟まったカメムシが出口ではない方へと進んでいく様にも、もどかしさを覚え、「どうしてそんな身動きが取れない方向へと進んでいくんの、広い空は逆方向よ」とかなしくなる始末。


実際に自分の身に起こったことは小さなことがはじまりだったのに、昔の出来事や地球の反対側のこと、虫の動きなど、時間と空間と種属を越えてかなしいをつなぎ、堪えきれなくなってしまう。我ながら非常に厄介だ。


昨夜夕食を食べながら、「どうも最近、なんだか心が弱々で、すぐかなしくなるのよ」と上の話をひと通り夫に話してみた。カメムシのくだりを話したあたりで夫は吹き出して笑った。そうかカメムシ見ててもかなしくなっちゃうのか。そうよぉ、おおごとなのよ。「カメムシといえば…」と夫が話し出す。


「今日ねパオ(車)の後ろの窓ガラスとドアの間の小さな溝のようなところにね、カメムシが潜りこんでいたよ。」「まぁ、どうしてそんなところに…あったかかったのかな。最近さむくなってきたしね。」と答えながら私はハッとした。「もしかしたら、網戸のカメムシも、あたたかいところへ潜りこみたくて、風が避けられる狭いところへと進んでいったのかも!空の方向が分からなくなったんじゃなくて!」「もしかしたら、そうかもねぇ」ぬくぬくとあたたかなところにいる虫を想像したら、なんだか少し心があたたかくなり、昨夜はぐっすりと眠った。


ここ数年は、些細なことに目をとめる余裕がなかったのだとふと思う。鈍感でなければ乗り越えれないような波に次々と向かっていた船。ほんとに傷がつかない頑丈な船なら良いけど、ただ見ないふりをしていただけの場合、そのままにしておくと難破してしまう。


‪今は、水が漏れようとしている傷を見つけてはひとつひとつ塞いでいく作業をしているのかもしれない、と想像する。小さな傷は小さな気づきでふさがったりもする。「カメムシが風を避けて温まろうとしていたのかもしれない」とふと想像するとか、そういったことだ。‬


このところ心がとても繊細だ。些細なことをキッカケに大きく哀しんでしまう一方で、植物ひとつ眺めているだけで大きく感動してしまう。スウィートバジルの朝陽を浴びる様が神々しかった。虫と私に命を少し分けてくれて、なおかつ自身に種を実らせている。まったくほんとうに、たまらなく素敵ね、

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