20190120

新聞嫌いの読書好き。再び新聞に近づく。 2019年100日記

<新聞嫌いの読書好き。再び新聞に近づく。(2019/1/20) 2019年100日記>
THE TIMES タイムズ紙の用意された宿、松本民藝家具だというテーブルにつき、パラパラとページをめくる。イタリアベニスの水位の件に目をうばわれ、中国のアイスボーイの環境が改善されたらしいという記事にほっこりし。世界のあちこちに想いを馳せているうちに、朝食が運ばれてきました。卵焼き、ウィンナーとサラダ。グレープフルーツ。


こどもの頃は新聞を読めば世の中のことが分かると思っていた。大人の世界を垣間見ているようでワクワク楽しく読んでいたと思う。大きくなるにつれ、新聞にも間違いがあり、事実というより主張があり、それはかたよっているものらしい、と思うようになった。新聞を読むと、痛ましい出来ごとや、腹立たしい出来ごとが目につくようになり、イライラしたりするようになった。


タスマニア生活中も新聞をとっていた。英語で書かれた新聞をすらすらっと読めるようになった快感と、タスマニア事情やオーストラリアの国内の様子を知っていくのが嬉しくてせっせと読んでいたと思う。自分も取材されて載せてくれた時があって、新聞は身近な存在になった。だけどやっぱり新聞にも間違いがあるし、偏った主張あることが見えてきた。悲しい事件や、怒りを感じる出来ごとが書き連らなった新聞を読むと気分が落ち込んだりした。何もできない自分の無力さに落ち込んだりもした。


そうして私は新聞を読まなくなった。同じ理由で(情報が間違っていて偏っていて、そして腹がたつという理由で)テレビのニュースからも目を背けるようになった。WANDERLUSTの床下ハウスには新聞も届かないしテレビもない。


読まなくなってしばらくしたら、ずいぶんと、自分と自分の身の回りのことに集中できるようになった。遠くの知らない誰かの事件で心掻き乱されることも少なくなり、かわりに実際の手の届くはんいのことに心を使うようになった。もちろん痛ましいことも、けしからんこともあるけど、それらに対して自分はアプローチすることもできなくは無い。


すっかり世界情勢に疎くなっている自分に気がつき始めたのはいつ頃だったっけか。ふと不安に思うことが多くなった。こんなにもニュースをシャットアウトしていて、私は大丈夫だろうか。


日本全国各地に赴き仕事をしている私。出張先の滞在地の宿に新聞があると、迷わず手を出すようになり、しばし貪るように読んだりしている自分に、行動の後で気がつく。出張先と喫茶店でだけ新聞をまたひらくようになった。


確かに情報は偏っている。右に左に斜め向こうに。ホテルや宿で新聞を読むことの利点は数種類用意してくれているところだ。両極端な方向から照らされて、すこし姿を見せる世の中の出来事…あぁそうか、もしかしたら新聞は思い切り偏っているくらいのものを読んでもいいのかもしれない。ただ偏っていると自覚し、違うサイドの意見や主張、を意識的に探して読んでみることでまた軸位置を調整できるんだと思う。


新聞を読みながら、ゆっくりと朝食をいただいて珈琲を飲みほす。新聞読んだ後ってどうしても気持ちがザワつく。このまま1日をはじめ自分の仕事にとりかかるのは、よろしくない気がする。書斎エリアへ。池田三四郎の「通俗民芸論」を前日に引き続き読む。新聞読むより、こういう本読んでる方が好きだな、と思う。心が熱くなる。



そんな朝。


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