20190120

朝の読書に通俗民芸論は目がさめる 2019年の100日記,

どんなに世の中が変わっても変わらない見方、考え方、というものもある。 

「大体ブームというものは、何時か退潮し、衰亡するもので、われわれにとってはブームはむしろ有り難くないものである。」

「お客も増し、注文に追いつかなくなると、勢い勉強はできなくなるだけでなく、反省する余裕もなく、ただ忙しいばかりになってしまう。」
「またそれを買う人たちも、内容が浅く、なんとなく、ムードや気分ではわかったような気になっているから、内容のない外観だけの、形式民芸調が幅をきかすのも当たり前といえば当たり前のこととなる。」
「悪貨が良貨を駆逐するのは世の常と同じ」
「ついには良いものも、悪いものも混合してしまい、せっかく真面目にやってきた人間まで、その方向へ引っ張られてしまう。」


「本当に何が正しく、何が間違っているかを判断するには、ただ知識の世界だけではできないところがある。なにかがおかしいという感じが大切で、それがその人のもつ直感というものである。」「その直感を持たないものは専門家ではない」「凡人が直感などと感じるものは、多くの場合その結果からみれば錯覚でしかなかったという事が、多いのである。」「日頃の訓練と修業で、その直感を常に練成しておかないと、直感は洗練されない」


池田三四郎の「通俗民芸論」がガツンと面白く、そして痛烈で、目が覚めたような思い。朝の読書時間。(直前に読んでいたとある新聞のとある記事がひどくてショックを受け、頭クラクラしたあとで、主張に軸のある本に会えてよかった)。
さて

「日頃の訓練と修業で、その直感を常に練成しておかないと、直感は洗練されない」のだそうで。さて今日は、私にとって基礎力「観察と画力」の修業と訓練に勤しむ日。人々を観察して絵に描きとめる、スケッチ。しかも今日じゅうに描きあげるというタイムリミットもあるし、人の目に晒された場所で描くという緊張感もあり。本番がそのままものすごい修業の場でもある。「観察眼と画力」を鍛え続けること。それが絵における「直感」を養うために必要なことのひとつ。たぶん。


今日2019/01/20は長野県松本市の四柱神社横で開催される「まつもと古市」にて、1日スケッチをしております。

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