0円で手に入る雑誌
フリーペーパー、フリーマガジンの類には
正直あまり期待をしていない。
発行初期の頃こそ面白かったりするのだけれども、
刊行回数を重ねるごとに
「広告」の色が濃くなってくる。
アツイなぁと思っていたフリーペーパーが
いつのまにか「生討論 学生のイマ」というような感じのコーナーで
「携帯はド○モが一番」なんてことを言い出したときには興ざめした。
座談会に参加している現役大学生達が
某携帯会社が他社に比べて何が良いか口々に話していくのだ。
おいおい。
フリーペーパーのスポンサーに
記事の内容までいじられてしまう。
スポンサーに食われてしまっている。
0円でやっていくのはむずかしいことなんだろうなー
大変なんだろーな となんとなく思う。
大変なんだろうけれど
広告色が濃くなり
特徴やメッセージ性が薄れたペーパーは
0円だとしても食指が動かない。
とは言うものの一応いろいろ目を通してみる。
スポンサーにおどらされているようなフリーペーパーでも
なにかおもしろい情報が落ちてたりする。
フリーペーパーはローカルなものが多いから
ひょっこり見つけたおもしろい記事が身近なものだったりもする。
豊橋に戻ってみれば
名古屋ほどフリーマガジン、ペーパーが多くはないので
手当たり次第一通り、分かる限り全てをチェックすることができる。
そのほとんどが、特集ページと
飲食店を中心としたショップの紹介に
読者からのお便りをつかったページで構成されている。
飲食店、美容、習い事…。
ターゲットはお金を自分で使える大人の女性
それも20代から中年まで幅広くといった感じだろうか。
若い子向けのセレクトショップから
おばさま向けのお洋服、アンチエイジングにカルチャー教室。
豊橋はお店の絶対数も名古屋ほど多くはないので
紹介されるお店もかぶってくる。
4月から毎月見ていれば、そろそろ見覚えのあるお店ばかりだ。
ショップ紹介にも飽きてくる。
さて、長々とフリーマガジンの説明をしてきた理由はひとつ。
そんな豊橋にて
そんな数少ないフリーペーパー、フリーマガジンに
あまり期待もせず次々と手を伸ばしていたら
出会ってしまいました。
ちょっとイイ感じの0円に。
『QUATRO
−東三河をもっと面白くするメンズライクなフリーマガジン』
まず、数々の地元情報誌が女性向けなのに対し、これは男性をターゲットにしているのが第一の特徴。かな。さてさて。
実ははじめて出会ったのは二ヶ月前なんだけれども。
一回見ただけじゃぁなんとも言えないなと
この雑誌の二冊目を心待ちにしていたんです。
とはいえ、「おもしろ。次も読みたい。」
って思わせてくれるフリーマガジンに出会ったのは久しぶり。
二冊目。
表紙。
「そろそろ秋モード」と小さな文字のはいった表紙は秋色。
ジャングルをおもわせる、うっそうと茂る植物に埋もれるようにして男が一人立っている。
ゴツイシルバーの指輪をはめて
デカイ凝ったメガネをかけたドレッド頭でひげづらの、
おにぃさん。
問題は次。
そのうしろに少しだけみえる
赤褐色のハニカム
見覚えがある。全貌は見えないけど、間違いない、私がハマッテしまった建築、コルゲートパイプでできた家、川合邸だ。
ものすごくドキドキしてソワソワしてページをめくる。
目次ページの背景の写真
表紙の男がカッコつけて座っている。
それはどうだっていい。
男の左にはベンツ社のトラック。
右手には白いポルシェ。
いずれも所々赤く錆び落ちている。
かっこいい…
「あ わぁ」
公衆の面前で間抜けな声をあげてしまう。
コレ、川合邸だぁ
小さな文字で添えてある COVER STORY には
「撮影場所はどこかって?個人住宅なので秘密です…。(中略)屋久杉を見て生命力を感じるように、ここには原始の強さを感じます。自然と共存する、というかどのように付き合っていくのが幸せか。『スローライフな暮らしがしたいね』なんて言っている全ての人のヒントがここあります」
か、川合邸でしょ???
と、まぁ、私の興奮っぷりをお見せしたいくらい
すごく興奮しています。
この興奮をどう抑えようか、悩ましいところです。
このフリーマガジンとの出会いにドキドキしてしまって寝られそうにありません。
Sketches by images and words; Japanese and English. Japanese girl who now lives in Tasmania note her life and thought. /絵と言葉によるスケッチ。タスマニアに住む日本人が、日本語と英語、それからイラストでかきとめます。
20070609
20070608
水越武
畏敬 おそれうやまうこと
自然環境破壊問題が一般常識として浸透しつつある昨今、
「うんそうだね。自然を大切にしよう。」と簡単に口に出す人の中には、どうも、自然を単純に「癒し」の対象としてしか捉えていない人が多くいるように思う。
自然環境とは、やさしく、あたたかく、大きなもので、私達を包んでくれるもの?私達に安らぎを与えてくれる為だけのもの?それはちょっと甘いんじゃないだろうか。
自然はとても厳しいものだ。厳しくて、時にとてもしんどくて、全てのものがなんかもう必死なんです(うまくいえない)。強い強い命の力。だからこそ、美しいし、たまらなく魅力的。そして時にたのしく、かわいらしく、愛おしい。もちろん癒してもくれる。
自然に癒しだけを求めて、街を捨てて森で生きる、なんてユメ物語だと思う。自然環境も、ひとのつくってきたものも、バカにしちゃぁいけない。厳しい環境の中を生き抜くために、人はシェルターをつくり、そこに棲みはじめたのだろうと思っている。建物も、街も、そもそも”生き抜く”ための必死な人間の知恵だったはず。自然環境も、ひとのつくってきた環境も、どちらも真剣勝負。
よく耳にする「環境保護」「地球を守ろう」という言葉。
引っかかりませんか?
人間が「地球を保護しよう」だなんて、おこがましい。
地球に生かされているのに。
自分は地球の一部なんだよ。
地球に足をついて仕事する人
地球で遊ぶことのできる人
そんな人同士で、わりとよくこんな話をする。
まぁ、なんのことはない、とりとめのない話だ。
なんのかんの言ったって、
そんな自然の世界につなっがているのが好きだ というだけの私達。
それで、そうやって自然の中に居る人は
命懸けの正念場にでくわしたり、
命の交代するシーンを目にしたりして、
自然の厳しさなんかを知ると同時に
どうしようもない愛情が沸きあがってきちゃったりするもの。
単純に「好き」というのとはちょっと違う。
畏敬の念。
おそれうやまう気持ち。
そんな気持ちをおもい起こさせてくれる人の一人が
水越さん。
高校時代、私の所属していた山岳部の先輩にあたる。
大先輩だ。彼は写真家として自然の写真を撮り続けている。
初めて彼の写真を見たとき、私は高校生だったのだが、正直に言うと「キレイ」とは思わなかった。世の中にもっとキレイで、(すてきな色や構図で)、人をひきつける魅力的な風景写真はたくさんあると思った。我ながら嫌な後輩だ。
水越さんの写真は、泥臭いかんじがする。垢抜けない。カッコイイ、綺麗な自然ではなくて。もっとこう、生々しいかんじ。
ところで、高校山岳部の同窓会(?)なるものが、実にマメに活動をしているのです。月に一回届く”山の会通信”では、誰かがなにかコトをおこすたびに、それを取り上げて、応援している。「○○が自費出版で本を出した、みなさん読みましょう」とか「○○が個展をひらくようなので、ちかくの方はぜひ行きましょう」とか。どんな小さなことでも。
そして今月の通信で、私は、水越さんがTVに取り上げられることを知った。今日はその放映日だった。「すごいねぇ。こんなちゃんと長い時間取り上げられるなんてねぇ。途中たいへんだったかもしれないし、今も大変かもしれないけど、でも、こう、ずっとすきなことを貫いてきたっていうのはすごい、つよいなぁ…」としゃべりつづける母と一緒に見た。
水越さんは「僕は風景をとっているんじゃない」と言っていた。森の中で「今、僕は森を風景としては捉えていない。風景ではなく森を撮っている」と。少しわかりづらかったけど、彼の写真は「森という命」を被写体としているようだ。「生態系ごと森をとらえる写真家」と紹介されていた。
そうか。野暮ったくて、泥臭くて、どこかぐちゃぐちゃっとした水越さんの写真は、でも生々しい命がつまっているんだな。
「必死にみんな生きている。この世界どんどん減ってきている。なくなる前に僕は記録として残しておく」やさしい口調だったけれど、強い意思を感じた。
何かを忘れそうになったら、水越さんの写真を見ようと思った。
そんな水越さんの写真展が7月1日まで東京の写真美術館で開かれています。
こんな長い日記をかいておいて、結局宣伝でした(笑)
読んでくださった方、ありがとう。
いちお、後輩として。
尊敬できる考え方の持ち主である先輩の、
最大の(!?)写真展ですから。
もしよかったら一度行ってみて下さい。黙々と撮り続けた40年の中から選びぬかれた写真だそうです。よ。
写真展 http://
写真美術館 http://
*日記に添えてある写真は、水越さんの一番新しい写真集の表紙です。どうぞよろしく
20070507
コルゲートパイプに棲む人
幻庵を訪ねたのは一年ほど前。
しとしと雨降る森の中ですごした幻のような時間。
「初めてここに来る人にはやさしいの。二回目以降来る人には意地悪だからね」
目の奥をキラリと鋭く光らせながら、そう言ったご主人の訃報を聞いたのは秋のこと。
再訪の夢は叶わなかった。
そして昨日
奇しくも あの日と同じ雨空の下
幻庵の原点となるコルゲートパイプの家を訪ねた。
川合健二邸
豊橋市内 自宅から車で30分ほど走った
森に抱かれたその家には
今はなき健二さんの面影を多分に残しつつ
花子さんが一人で暮らしている。
住むというより棲んでいるといった方がしっくりくる。
ぎょっとする外観
強い存在感と、漂う毒々しさ
と
薫る新緑に咲き乱れる草花
コテコテ人工的なコルゲートパイプの家は
何故だか森がよく似合う。
中に通され
花子さんの旅行のお土産のお菓子を頂きながら
お茶を飲む。
川合邸の強烈な第一印象とは対照的に
ゆるりとくつろげる落ち着く家の中。
幻庵は別荘として、日常とはかけ離れた時が流れているが
ここは生活の場だ。
顔をくしゃっとさせてたのしそうに笑う花子さんの
さまざまな物事を自然にうけいれてきた
その人となりが、
この居心地の良い雰囲気をつくり出しているのかもしれない。
それにしても、
90歳を目前にしているとは思えないほど
頭の回転がはやく、鋭く、テンポのよい花子さんに驚かされる。
健二さんの話、この家の構造、工法、エネルギーと自然の話、生き方の話、コルゲートパイプを通して繋がってゆく人の話、幻庵のご主人と奥さんの話、…。
ぽんぽん繰り出される話と、
こちらの言う事に対してのすばやい切りかえし。
飽きない。
そしてほんとによく笑う。
そしてやっぱり、笑うその目の奥がときどき鋭く光る。
幻庵のご主人を思い出す。
最後に、この家の未来について聞いてみる。
失礼かとも思うのだけれど、
自分のなき後の幻案の行く先を語っていた
幻庵のご主人を思い出すと、聞かずにはいられない。
「ずっとこの家をこのまま残しておこうなんて考えてないよ。
だってモノだから、いつか壊れていくものだから。伊勢神宮じゃあるまいし」
と花子さんは笑う。
そして、鋭い目つきに変わった花子さんは、こう付け足した。
「カタチをこのまま残しておきたいとは思わない。ただ、こんなモノを建てて、こんな生き方をした人がいたんだ ということを残すことで、後の人になにか伝えられたらいいなと そんな風には思ってる」
この家も、幻庵も、
考え方、生き方 のあらわれであるように感じる。
コルゲートパイプの家の魅力は
そこに棲む人、つかう人自体の魅力と切り離して考えることは出来ない。
コルゲートパイプの家は、単なる素材や構造、形態だけでは語れない、思想の家だ。
気が付くと、ずいぶん長いこと時間が経っていた。
「今日は楽しかったわ」
と花子さんは笑い
「次はみかんの時期においでんね」
と言った。
花子さんに別れをつげ川合邸を後にする。
ワーゲン
ポルシェ
ベンツのトラック
庭先に、綺麗に錆びて、朽ちかけている車が並ぶ。
しっとり雨にぬれたその姿は美しい。
朽ちかけた白いポルシェの周りには
白い花が咲いていた。
雨の日は色が鮮やかでこまる。
まぶたに焼きついた その光景がいつまでも離れない。
花子さんのみかん畑が豊かに実る頃、また訪れようと思った。
私の家の柿畑に実るはずの柿をもいで、を手土産に持っていこうかな。
しとしと雨降る森の中ですごした幻のような時間。
「初めてここに来る人にはやさしいの。二回目以降来る人には意地悪だからね」
目の奥をキラリと鋭く光らせながら、そう言ったご主人の訃報を聞いたのは秋のこと。
再訪の夢は叶わなかった。
そして昨日
奇しくも あの日と同じ雨空の下
幻庵の原点となるコルゲートパイプの家を訪ねた。
川合健二邸
豊橋市内 自宅から車で30分ほど走った
森に抱かれたその家には
今はなき健二さんの面影を多分に残しつつ
花子さんが一人で暮らしている。
住むというより棲んでいるといった方がしっくりくる。
ぎょっとする外観
強い存在感と、漂う毒々しさ
と
薫る新緑に咲き乱れる草花
コテコテ人工的なコルゲートパイプの家は
何故だか森がよく似合う。
中に通され
花子さんの旅行のお土産のお菓子を頂きながら
お茶を飲む。
川合邸の強烈な第一印象とは対照的に
ゆるりとくつろげる落ち着く家の中。
幻庵は別荘として、日常とはかけ離れた時が流れているが
ここは生活の場だ。
顔をくしゃっとさせてたのしそうに笑う花子さんの
さまざまな物事を自然にうけいれてきた
その人となりが、
この居心地の良い雰囲気をつくり出しているのかもしれない。
それにしても、
90歳を目前にしているとは思えないほど
頭の回転がはやく、鋭く、テンポのよい花子さんに驚かされる。
健二さんの話、この家の構造、工法、エネルギーと自然の話、生き方の話、コルゲートパイプを通して繋がってゆく人の話、幻庵のご主人と奥さんの話、…。
ぽんぽん繰り出される話と、
こちらの言う事に対してのすばやい切りかえし。
飽きない。
そしてほんとによく笑う。
そしてやっぱり、笑うその目の奥がときどき鋭く光る。
幻庵のご主人を思い出す。
最後に、この家の未来について聞いてみる。
失礼かとも思うのだけれど、
自分のなき後の幻案の行く先を語っていた
幻庵のご主人を思い出すと、聞かずにはいられない。
「ずっとこの家をこのまま残しておこうなんて考えてないよ。
だってモノだから、いつか壊れていくものだから。伊勢神宮じゃあるまいし」
と花子さんは笑う。
そして、鋭い目つきに変わった花子さんは、こう付け足した。
「カタチをこのまま残しておきたいとは思わない。ただ、こんなモノを建てて、こんな生き方をした人がいたんだ ということを残すことで、後の人になにか伝えられたらいいなと そんな風には思ってる」
この家も、幻庵も、
考え方、生き方 のあらわれであるように感じる。
コルゲートパイプの家の魅力は
そこに棲む人、つかう人自体の魅力と切り離して考えることは出来ない。
コルゲートパイプの家は、単なる素材や構造、形態だけでは語れない、思想の家だ。
気が付くと、ずいぶん長いこと時間が経っていた。
「今日は楽しかったわ」
と花子さんは笑い
「次はみかんの時期においでんね」
と言った。
花子さんに別れをつげ川合邸を後にする。
ワーゲン
ポルシェ
ベンツのトラック
庭先に、綺麗に錆びて、朽ちかけている車が並ぶ。
しっとり雨にぬれたその姿は美しい。
朽ちかけた白いポルシェの周りには
白い花が咲いていた。
雨の日は色が鮮やかでこまる。
まぶたに焼きついた その光景がいつまでも離れない。
花子さんのみかん畑が豊かに実る頃、また訪れようと思った。
私の家の柿畑に実るはずの柿をもいで、を手土産に持っていこうかな。
20061013
直感の無い概念
直感の無い概念は、空虚であり
概念の無い直感は、盲目である
カント
10月9日。金沢21世紀美術館。
artificial heart
川崎和男展−いのち・きもち・かたち
記念リサイタル・フーガにて川崎先生が引用したカントの言葉は私の胸にざっくり突き刺さったまま。
今まで私がつくってきた実習課題、全てがただの概念に過ぎない、気がしている。しかもかなりおおざっぱな。どれひとつとして「直感」のはたらいたものってない気がする。
直感の無い概念は、空虚
…イタイ。
感性的かつ感覚的先手
なんて言われちゃうと不安になる。感性?感覚?そんなもの、果たして私の中にあるのか?もしあるんだったら、眠ってないで顔出してほしい。鍛えればなんとかなるもんだったら鍛えたい。でもどうやって??
こんな私が自分に自信を持つだなんて、ひどく困難な話。
美しいものと生きれば
美しく死んでいく
そう言う川崎先生の心にある忘れられない風景として、画面いっぱいに映し出されたのは剣岳。雄雄しく、しかし少し神経質そうな剣岳の美しいこと。そこにふく風と、いっぱい折り重なった圧倒的な空気感(うまく説明できないけど、山をやる人になら伝わるハズ?)を想像して、うっとりする。
そして、これを美しいと思える自分に少し安心する。美しいもののひとつとして、剣岳をもってきた先生にこっそり感謝。すこし救われました。
白山のブナ林
ブナ林におかれた結界の話だったのだけれど、川崎先生の口から「ブナ林」という単語が出てくるなんて予想だにしていなかったからおどろいた。
ブナ林への想いは日に日に募るばかりの私です。「ブナ林」と聞いただけで、脳内トリップ、ブナ林をあるくことができる。ほんとにひどい妄想癖。しばらくうっとりしていられる。
さて。話は変わって。
心の底からうっとりする
突き上げるような感動を伴った美しさ
そんな美の経験、私の場合、実はほとんどが自然から受けたものだ。
山の急斜面でソヨゴが一斉に風にたなびくそのとき、葉の表面のこまかい産毛(?)が、太陽の光を受けてきらきらと光っていた。
屋久島の60度近くあるんじゃないかってくらいの急登を終えてたどり着いた太鼓岩からの、あの景色。深い、でかい渓谷から吹き上げ吹きつける風。あの量感。川。谷。山。海。空。
雲と山の頂に残る雪の白さと、旋回する鳥の軌跡…。忘れられない。
小笠原諸島、父島はダイビングスポットを数多く持ち合わせているが、その中で私が何度も通いつめた製氷海岸。
一面のエダサンゴの群生。息が詰まるほど美しい海底世界。(実際に息がつまっていたんだけど…)
ノコギリダイとユウゼンの泳ぐその海の、抱えきれないブルーと、厳しく美しい世界。
なんて、思い出したらきりが無い。
気を緩めたら、涙があふれそうになるくらい
突き上げてくる美しさと感動
を くれる、そんな地球(景色、生き物…自然?)がほんとにほんとに大好き。
愛しい。
ところで。何の話かというと、私の卒業制作の話にまとまるのね。
私の卒業制作は、私の、大好きな、愛しくてたまらないものたちに捧げたい。
私の愛情あふれるものとなる予定なのです。
ちゃんとつくりきりたい。
でも、自信ない。
私に足りない、感性。
どうやって補えばいいんだろ??
感覚。直感。
鍛えればなんとかなる?
直感の無い概念は、空虚であり
概念の無い直感は、盲目である
では、直感を得た概念は?
私が直感を得たら?
何ができる?
どうなる?
私の卒業制作。
思いつき
思い込み
思いやり
今はまだまだ、思いつきの域を抜け出せない。
最後は 思いやり で仕上げる。
対象が、大好きな愛しいものたちだもの、いっぱいいっぱい思いやることができるよ。きっと。
ただそのまえに。
これから 思い込む 段階。
概念の無い直感は、盲目である
カント
10月9日。金沢21世紀美術館。
artificial heart
川崎和男展−いのち・きもち・かたち
記念リサイタル・フーガにて川崎先生が引用したカントの言葉は私の胸にざっくり突き刺さったまま。
今まで私がつくってきた実習課題、全てがただの概念に過ぎない、気がしている。しかもかなりおおざっぱな。どれひとつとして「直感」のはたらいたものってない気がする。
直感の無い概念は、空虚
…イタイ。
感性的かつ感覚的先手
なんて言われちゃうと不安になる。感性?感覚?そんなもの、果たして私の中にあるのか?もしあるんだったら、眠ってないで顔出してほしい。鍛えればなんとかなるもんだったら鍛えたい。でもどうやって??
こんな私が自分に自信を持つだなんて、ひどく困難な話。
美しいものと生きれば
美しく死んでいく
そう言う川崎先生の心にある忘れられない風景として、画面いっぱいに映し出されたのは剣岳。雄雄しく、しかし少し神経質そうな剣岳の美しいこと。そこにふく風と、いっぱい折り重なった圧倒的な空気感(うまく説明できないけど、山をやる人になら伝わるハズ?)を想像して、うっとりする。
そして、これを美しいと思える自分に少し安心する。美しいもののひとつとして、剣岳をもってきた先生にこっそり感謝。すこし救われました。
白山のブナ林
ブナ林におかれた結界の話だったのだけれど、川崎先生の口から「ブナ林」という単語が出てくるなんて予想だにしていなかったからおどろいた。
ブナ林への想いは日に日に募るばかりの私です。「ブナ林」と聞いただけで、脳内トリップ、ブナ林をあるくことができる。ほんとにひどい妄想癖。しばらくうっとりしていられる。
さて。話は変わって。
心の底からうっとりする
突き上げるような感動を伴った美しさ
そんな美の経験、私の場合、実はほとんどが自然から受けたものだ。
山の急斜面でソヨゴが一斉に風にたなびくそのとき、葉の表面のこまかい産毛(?)が、太陽の光を受けてきらきらと光っていた。
屋久島の60度近くあるんじゃないかってくらいの急登を終えてたどり着いた太鼓岩からの、あの景色。深い、でかい渓谷から吹き上げ吹きつける風。あの量感。川。谷。山。海。空。
雲と山の頂に残る雪の白さと、旋回する鳥の軌跡…。忘れられない。
小笠原諸島、父島はダイビングスポットを数多く持ち合わせているが、その中で私が何度も通いつめた製氷海岸。
一面のエダサンゴの群生。息が詰まるほど美しい海底世界。(実際に息がつまっていたんだけど…)
ノコギリダイとユウゼンの泳ぐその海の、抱えきれないブルーと、厳しく美しい世界。
なんて、思い出したらきりが無い。
気を緩めたら、涙があふれそうになるくらい
突き上げてくる美しさと感動
を くれる、そんな地球(景色、生き物…自然?)がほんとにほんとに大好き。
愛しい。
ところで。何の話かというと、私の卒業制作の話にまとまるのね。
私の卒業制作は、私の、大好きな、愛しくてたまらないものたちに捧げたい。
私の愛情あふれるものとなる予定なのです。
ちゃんとつくりきりたい。
でも、自信ない。
私に足りない、感性。
どうやって補えばいいんだろ??
感覚。直感。
鍛えればなんとかなる?
直感の無い概念は、空虚であり
概念の無い直感は、盲目である
では、直感を得た概念は?
私が直感を得たら?
何ができる?
どうなる?
私の卒業制作。
思いつき
思い込み
思いやり
今はまだまだ、思いつきの域を抜け出せない。
最後は 思いやり で仕上げる。
対象が、大好きな愛しいものたちだもの、いっぱいいっぱい思いやることができるよ。きっと。
ただそのまえに。
これから 思い込む 段階。
20060910
海を歩いて渡る
島唄よ風にのり 鳥とともに 海を渡れ ♪
鼻歌フンフン歌いながら、海を渡ってまいりました。
歩いて!!
終わりゆく夏を惜しむ旅
企画:真子
出演:友人K、真子
コンセプト:「島でおにぎりを食べよう」
その時ちょうど引き潮で、
海は浅く、底が見え、きらきら光っていた。
「これ、このまま歩いて島まで渡れちゃうんじゃない?」
「え?あの辺深そうじゃない?…でも、行けるかも?」
まぁ、途中深くて無理そうだったら引き返せばいいし、
なにも満ち潮ったってそんな急にどどって押し寄せてくるわけでもなし。
ぴちゃぴちゃ足音たてて 気ままに進む。
海を歩く。
海を歩いて渡る。
なんだかシュールで きれいで 楽しい。
みなもはきらきら輝く。波のバックグラウンドミュージックに、足音と鼻歌がまじる。空がでかい。ねっとり湿気を含んでいるくせに気持ちいい風。
渡れちゃいましたよ?
ね?
何事も、やってみるもんです。んふふ♪
島は小さく、歩いて30分程度で一周できるという。島まで来てわざわざ時計出す気にもなれないから、確かめてはないですが。
山にしろ、川にしろ、海にしろ、大自然を目の前にしたとき、または包まれたとき そこにながれるこの独特の時間の流れが好きだ。ゆったりとした、でも 遅くもなく、すごく心地良い時間。とても贅沢な時間。
持ち物は、おにぎりとお茶。
そこにあるのは、島と海と風と隣にいる友人。
おにぎり食べて、話して…。
何をするというでもなく、ゆったりとすごす。
風を感じ
太陽の動いていくのを感じ
潮が満ち島の地形が変わるのを眺め
それに従い、波の音、波のリズムが変わることにおどろき
ちっぽけな島でたっぷり一日(半日)
海の潮気と太陽のひかりで、私の肌も髪もさらに傷んでしまったけれど
すごく満たされた。おなか一杯大満足の一日だった。
20060519
ブナの林に雨降るとき
今日は雨。
芸工棟三階、アーバンの窓から見えるもの。工場(工房)、研究棟、その間にある木、名工大のグラウンド。
そして私の瞼にうかぶもの。まだ見ぬ、雨のぶな林。
四日前、長野県飯山市なべくら高原にあるブナ林を歩いた。その日は晴れだった。
ぶあつく残る雪の上を案内してくれたのは、林や森が大好きな人。たぶん私の1コか2コ上(4コ上ってことはないだろう…、ただの勘だけど) の彼はすごく楽しそうに歩き、語る。一緒に歩くととっても楽しい。
うさぎが食べた跡だよ。
これはリスが食べた跡。
ブナの木の根元だけ雪がまるく溶け落ちている。これを根空きと呼ぶらしい。春のしるし。
雪が残っているのに、確かにそこには春がきている。
眩しく芽吹く若葉と根空き。
草や薮は雪の下に隠れていて、低い木もなく、枝は高い位置にあるためだろうか、林の中はすっきりとした空間がひろがっている。雪のひんやりとした空気と、木漏れ日がきもちいい。
ブナ林は爽やかだ。
ほんとにきもちがいい。
そう言う私に、Sさんはこう返した。
「晴れの日の爽やかな林もいいけど、僕は雨の日の方が好きだな。幻想的で。ほら、幹に上から下までずっと跡がついているの見える?あれは水が流れた跡。
ブナの木って、枝が上に広がったカタチをしているから。雨が降ったとき、なるべく雨を下にこぼさないように、広がった枝と葉っぱが雨を受け止めるんだ。その受け止めた雨を集めて、幹に流す。滝のように。
だから、雨のブナ林に入ると、全然濡れないんだ。部屋の中にいるみたいに。そして幹のうえを水が滝のように流れているんだよ。
なんていうか、すごく…すごく不思議なかんじだよ。すごく、いい。雨のブナ林は好きだなぁ。」
おおきな目をキラキラさせて、うっとり語ってくれた。
話を聞きながら、私の頭の中では、ブナ林に雨が降っていた。それはすごく神秘的な風景だった。
雨の日のブナ林。
私の小さな家を、雨のブナ林にたててみたいな。雨のブナ林にも、すっきり溶け込む、家にしなきゃな。下手なもの、つくれないや。
とか、こっそり想像を膨らませながら。
今日の名古屋は雨。
あのブナ林には今、雨が降っているのだろうか?
20060316
大地を刻んだ男
イサム・ノグチ
最期の大作。モエレ沼公園に行ってきました。
圧倒的なパワーを見せつけるそのフォルムを、カメラに納めようとしたけどできなかった。
「葛飾さん。あなただったら、どこから、どんな風にコレを納めますか?」
イサム・ノグチの巨大な彫刻を前に葛飾北斎のすごさを思い知ることになろうとは。
イサム・ノグチ。子供のためにつくった公園っていうけれど。
でも、これはやっぱり「彫刻」 だよな。って。
「彫刻家の枠を超え、彼はアーキテクトにそしてランドスケープデザイナーに…」って 解説した文があったけど。いやいや、彼はやっぱり彫刻家だよ。デザイナーではなくて、アーティストだよ。うまく言えないけど。
子供の遊び場 だったら、タカノさん(私がオープンデスクにいっていたところ)の方が好きだなぁ。
とか、そんなことをおもいつつ。いつものモンゴルブーツを酷使して雪の上を歩き回ったわけです。
出発前に、先生に「このブーツじゃ駄目ですね。底が皮じゃないか。雪上なんてあるいたらはがれてきますよ。」って言われてたこのブーツ、今んとこ平気ですよー。(つるっつるっにすべるけどね。)
最期の大作。モエレ沼公園に行ってきました。
圧倒的なパワーを見せつけるそのフォルムを、カメラに納めようとしたけどできなかった。
「葛飾さん。あなただったら、どこから、どんな風にコレを納めますか?」
イサム・ノグチの巨大な彫刻を前に葛飾北斎のすごさを思い知ることになろうとは。
イサム・ノグチ。子供のためにつくった公園っていうけれど。
でも、これはやっぱり「彫刻」 だよな。って。
「彫刻家の枠を超え、彼はアーキテクトにそしてランドスケープデザイナーに…」って 解説した文があったけど。いやいや、彼はやっぱり彫刻家だよ。デザイナーではなくて、アーティストだよ。うまく言えないけど。
子供の遊び場 だったら、タカノさん(私がオープンデスクにいっていたところ)の方が好きだなぁ。
とか、そんなことをおもいつつ。いつものモンゴルブーツを酷使して雪の上を歩き回ったわけです。
出発前に、先生に「このブーツじゃ駄目ですね。底が皮じゃないか。雪上なんてあるいたらはがれてきますよ。」って言われてたこのブーツ、今んとこ平気ですよー。(つるっつるっにすべるけどね。)
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