畏敬 おそれうやまうこと
自然環境破壊問題が一般常識として浸透しつつある昨今、
「うんそうだね。自然を大切にしよう。」と簡単に口に出す人の中には、どうも、自然を単純に「癒し」の対象としてしか捉えていない人が多くいるように思う。
自然環境とは、やさしく、あたたかく、大きなもので、私達を包んでくれるもの?私達に安らぎを与えてくれる為だけのもの?それはちょっと甘いんじゃないだろうか。
自然はとても厳しいものだ。厳しくて、時にとてもしんどくて、全てのものがなんかもう必死なんです(うまくいえない)。強い強い命の力。だからこそ、美しいし、たまらなく魅力的。そして時にたのしく、かわいらしく、愛おしい。もちろん癒してもくれる。
自然に癒しだけを求めて、街を捨てて森で生きる、なんてユメ物語だと思う。自然環境も、ひとのつくってきたものも、バカにしちゃぁいけない。厳しい環境の中を生き抜くために、人はシェルターをつくり、そこに棲みはじめたのだろうと思っている。建物も、街も、そもそも”生き抜く”ための必死な人間の知恵だったはず。自然環境も、ひとのつくってきた環境も、どちらも真剣勝負。
よく耳にする「環境保護」「地球を守ろう」という言葉。
引っかかりませんか?
人間が「地球を保護しよう」だなんて、おこがましい。
地球に生かされているのに。
自分は地球の一部なんだよ。
地球に足をついて仕事する人
地球で遊ぶことのできる人
そんな人同士で、わりとよくこんな話をする。
まぁ、なんのことはない、とりとめのない話だ。
なんのかんの言ったって、
そんな自然の世界につなっがているのが好きだ というだけの私達。
それで、そうやって自然の中に居る人は
命懸けの正念場にでくわしたり、
命の交代するシーンを目にしたりして、
自然の厳しさなんかを知ると同時に
どうしようもない愛情が沸きあがってきちゃったりするもの。
単純に「好き」というのとはちょっと違う。
畏敬の念。
おそれうやまう気持ち。
そんな気持ちをおもい起こさせてくれる人の一人が
水越さん。
高校時代、私の所属していた山岳部の先輩にあたる。
大先輩だ。彼は写真家として自然の写真を撮り続けている。
初めて彼の写真を見たとき、私は高校生だったのだが、正直に言うと「キレイ」とは思わなかった。世の中にもっとキレイで、(すてきな色や構図で)、人をひきつける魅力的な風景写真はたくさんあると思った。我ながら嫌な後輩だ。
水越さんの写真は、泥臭いかんじがする。垢抜けない。カッコイイ、綺麗な自然ではなくて。もっとこう、生々しいかんじ。
ところで、高校山岳部の同窓会(?)なるものが、実にマメに活動をしているのです。月に一回届く”山の会通信”では、誰かがなにかコトをおこすたびに、それを取り上げて、応援している。「○○が自費出版で本を出した、みなさん読みましょう」とか「○○が個展をひらくようなので、ちかくの方はぜひ行きましょう」とか。どんな小さなことでも。
そして今月の通信で、私は、水越さんがTVに取り上げられることを知った。今日はその放映日だった。「すごいねぇ。こんなちゃんと長い時間取り上げられるなんてねぇ。途中たいへんだったかもしれないし、今も大変かもしれないけど、でも、こう、ずっとすきなことを貫いてきたっていうのはすごい、つよいなぁ…」としゃべりつづける母と一緒に見た。
水越さんは「僕は風景をとっているんじゃない」と言っていた。森の中で「今、僕は森を風景としては捉えていない。風景ではなく森を撮っている」と。少しわかりづらかったけど、彼の写真は「森という命」を被写体としているようだ。「生態系ごと森をとらえる写真家」と紹介されていた。
そうか。野暮ったくて、泥臭くて、どこかぐちゃぐちゃっとした水越さんの写真は、でも生々しい命がつまっているんだな。
「必死にみんな生きている。この世界どんどん減ってきている。なくなる前に僕は記録として残しておく」やさしい口調だったけれど、強い意思を感じた。
何かを忘れそうになったら、水越さんの写真を見ようと思った。
そんな水越さんの写真展が7月1日まで東京の写真美術館で開かれています。
こんな長い日記をかいておいて、結局宣伝でした(笑)
読んでくださった方、ありがとう。
いちお、後輩として。
尊敬できる考え方の持ち主である先輩の、
最大の(!?)写真展ですから。
もしよかったら一度行ってみて下さい。黙々と撮り続けた40年の中から選びぬかれた写真だそうです。よ。
写真展 http://
写真美術館 http://
*日記に添えてある写真は、水越さんの一番新しい写真集の表紙です。どうぞよろしく
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