20071117

世界のあちこちを耕すように

先週の火曜日、東京、ヒマラヤスギの樹の上で過ごしたその後の話。 
ツリーハウスを後にした私の次の目的地は早稲田大学。 
スギの幹まわりのテーブルで出会った早大生に案内してもらって 
大隈さんの像のそばの8号館の教室へ。 
目的は公開講義の聴講。 

「現代作家作品論」 という一般公開している授業シリーズ。 
今回のテーマは「世界とランドスケープ」。 
講師は高野ランドスケープ プランニング(株)より、 
高野さん、金清さん、石村さん、樫野さん 
四人のLandscape architects。 

北海道でお世話になったロマンチストで少年のような瞳をもった素敵な社長、高野さん(趣味は馬術 障害飛び越し)に、 
その片腕、凄味のある金清さん(趣味は つり 山菜とり 登山)。 
高野ランドスケープ初期の頃のメンバーにして、現在は台湾に根をおろし活躍している石村さん、マレーシアに事務所を構える樫野さん。。 
私にとっては、とても豪華なメンバーなのです。 

世界のあちこちで仕事をする高野ランドスケーププランニングという会社の 
いままで辿ってきた道、してきた仕事、スタンス等の総集編といった感じの 
聴き応えのある内容でした。 
そして  
メッセージのたっぷり詰まった熱い熱い講演会だったんです。 


高野さんが掲げているモットー 

原寸主義・自力建設・参加型・自然の営力を生かすこと 

高野さん達は、設計においては 手 を何よりも信じている。机上の作業、パソコンの図面、頭の中の整理だけではなく、手を動かすことを最重要視する。体全体で感じることをおろそかにしない。「原寸主義」という考え方だ。1/100、1/50…ランドスケープにおいては常識破りの巨大な模型を用いてデザインを検討する。施工現場に入り、土建屋さんや職人さんとまじりながら仕事をし、手で触って確認をし、最終的な微調整をその場で行う。デザイナーも一緒になってつくる。つまり「自力建設」だ。 

また、誰の為の公園?誰の為の設計?を常に頭に置き、デザインプロセスを非常に重要視する。「参加型」これについては後で補足したい。 
「自然の営力を生かす」についてはまた別の機会に 


満月「耕すように建築するウマ」 

2007年出版のCATの本にあった言葉なのだが、 
これはど高野さんにぴったりの言葉はないと思う。 

土に手を加え、息を吹き込む作業 
ぽんとハコやモノを置くのではなく継続していくもの 
土だけでなく、街や人、考え方までも耕してしまう。 

「耕す」にまつわるエピソードを一つ紹介したい。 
会社が設立してなんとかはしりだした頃の話だ。 
マレーシアの国立公園という巨大プロジェクト。 
世界中から集められた会社やデザイナー達が国王の前でプレゼンテーションをする。 
結果、選ばれたのが 
社長1人、社員3人のたった4人の会社である 
高野ランドスケーププランニング。 
組織力のある大手でなければ国立公園規模の設計は難しい。 
そのうえ実績もなく、経験も浅い若者達の集まりで未知数。 
ではなぜ選ばれたのか? 

「他の会社は、俺がどんなにすごいか、俺の案がどれだけすごいかと、そればかり高々と説明する中で、おまえだけは違っていた。『一緒につくっていきたい。』そう語ったから、一緒にやりたいと思った」 
こう後で聞かされたのだという。 

マレーシアはまだまだ発展途中の国であった。 
ランドスケープデザイナーと呼ばれる人はおらず、 
施工を安心して任せられるような業者も見当たらない。 
高野さんたちは、そんな人(ランドスケープデザイナーと施工者)を育てることを、 
公園の設計と合わせてすすめることを提案した。 
現地マレーシア人をたくさん加えてのプロジェクトだ。 
まずは視察からはじめ、基礎知識をざっとたたき込む。 
設計の舵取りは高野が行うが、どんどん意見を出してもらう。 
時間はかかるが、海外のデザイナーが一方的に押し付けるようなカタチの公園をつくるよりも 
マレーシアの今後にとって、とても意味のあることではないだろうか。 

たった四人で仕事をするには?という苦肉の策からうまれたこの方法だが 
結果的に非常に大きな効果をもたらした。 
そしてそれは、マレーシア国王や、国民とたちまちフレンドリーになり 
みんなを巻き込んでいってしまう高野さんの人柄なくてはありえなかっただろう。 

高野さんは、公園をつくるため、ただ土地を耕し掘り起こしたのではない。 
「人や、街を耕した」と言えるのではないだろうか。 

そして、マレーシアからの信頼を得たランドスケーププランニングは、 
その後もマレーシアの土地を耕し続けている。一方的に「俺すごいだろ?」を押し付けるのではなく。 

樫野氏はその後20年マレーシアに根をおろして耕し続けている。 



満月「人を巻き込む参加型走る人」 

フランスのアルバートカーン庭園を手がけたときのエピソードだ。 
日仏親交の証としてつくられた庭園の大幅改修。 
カーンの人生にちなんだ新しいタイプの日本庭園を提案した。 
マレーシア国立公園とは違い、こちらはデザインは一手に高野ランドスケーププランニングがひきうけ、きっちりとつくりあげた。 
造形的に造園会に衝撃をあたえた芸術性の高い作品だといわれている。 

金清さんを中心に考えあげ練り上げられた図面を実際にカタチにする際 
彼らはダイナミックな案を提案する。 
永く愛される公園としていくために、この庭園工事を交流プログラムとしてとらえた。 
日本の職人、フランスの造園家、のみならず、 
フランスに出稼ぎに来ている労働者に、地元に住んでいる住人、 
ついには各国から訪れているフランスへの観光客、 
バックパッカーの旅行者までをひきこんで、 
みなで施工にあたったのだ。 

「仲をとり持つのに欠かせないのはパーティでして」 
と金清さんは語る。 
日本庭園につかう石を探すためにフランス中を探し回った金清さんは 
同時にワイナリーもめぐっていた。 
フランス人もおどろくようなマイナーなワイナリーの逸品達を 
石と一緒に集めてきていたのだ。 
高野ランドスケーププランニングの皆様は、 
お酒と、人と、楽しいことが大好きなのだ。 

お酒とささやかなおつまみで夜な夜な楽しんでいると 
自然に集まってきたのが、前述した 
フランスに出稼ぎに来ている労働者達だ。 
彼らは母国(アフリカの各地)では家も何もかも自分達でつくっていたため 
繊細な手仕事のできる技術を持っていた。 
しかし、彼らのノウハウは生かされることなく、 
日々単純な肉体作業を繰り返していたのだ。 
しかもフランス国内においてはおどろくほど低賃金で。 
パーティで一緒に飲みながら、そんな話を聞いてて思わず 
「それなら、この庭を一緒につくらないか?」と声をかけたら 
ぞくぞくと集まってきたらしい。 

アフリカからの低所得労働者の可能性、持っている技術を 
フランスの造園関係者ならびにフランスの政府のお役人(日仏親交の庭園なのだとかで、お役人達がからんでいる) 
それから地元にすむひとたちに、知らしめることとなった。 

黄色黒色白色 違う肌の人たちが一緒に 
泥だらけになって石を運んで樹を植えている 
施工途中の写真は笑顔であふれている。 

完成した日には、近所のパン屋さんが庭の模型をパンで焼いてくれたらしい。 
庭のパンをみんなでちぎって食べながら最後のパーティを楽しんだのだそうだ。 



「あのとき、一緒に樹を植えた者です。観光旅行で出かけたはずなのに、すっかり泥んこまみれになっていました。」 
講演会に来ていた中年の女性がそう言った。この人も今では高野ランドスケーププランニングの(高野さんの?)大ファンなのだそうだ。 



満月「そこで幸せになる工夫クローバー」 

マレーシアの街路の植栽計画も頼まれることになった高野ランドスケーププランニングは、ここでもまた、人々の意識を耕した。 

当時のマレーシアで使われていた街路樹は 
ホウオウボク コウエンボク レインツリー等、外来種一辺倒。 
つまり、全て輸入物。 
ジャングルに一歩足を踏み入れればそこには 
多様な豊かな森が広がっていると言うのに。 

高野ランドスケーププランニングはジャングルに生えている樹を使って 
都市の景観をつくることを提案した。 

政府も、見つめていた地域の住民も猛反対した。 
(高野さん達は地域の住民に同行してもらい尋ねながら何度もジャングルに入っては、種をひろい集め育てるなど、怪しげな(!?)行動をしていたため注目されていた。) 
マレーシア。 
彼らにとってジャングルは、未開の土地、ふりかえりたくない過去である。 
危険で粗野なジャングルを切り開きつくられたゴムの樹のプランテーションは、文明の進歩の証である。 
都市部にいたっては、もっともっと進化した景色をつくりたい。 
そこで、すでに発展している国から輸入した樹をつかって景色をつくりはじめていたのだ。 

高野さんたちは、謙虚だけれども頑固だ。 
「自分達の国に、その土地とその土地の育てる樹にもっと自信をもてばいい。ジャングルの樹は決して粗野なものではない。非常に魅力的なものだ。きちんとコントロールすれば都心の風景とジャングルの樹を共存させることが出来る。」 
と、根気よく語り続けた。 
今では、高野さんたちがジャングルで拾ったタネを 
マレーシアのひとたちが苗木として育てた樹木が 
マレーシア各地の街路や公園などあちこちにみられる。 


台湾でも同じようなことがあった。 
高野さん達が台湾入りしたのは1987年戒厳令が解除された直後だ。 

台湾では1947年2月28日に勃発した二・二八事件以降、蒋介石率いる台湾国民政府によって言論弾圧が強化され戒厳令がひかれていた。 
「この島は一時的な滞在場所で、いずれは大陸に戻り中華民国を打ちたてよう」 
といった気運がちょうどひとだんらくしたころだ。 
人々の目が徐々に自分達の足元、この島での生活に向き始めたそのとき、 
高野ランドスケーププランニングは台湾に上陸する。 
「毎日の暮らしを、きもちよく楽しくしていこう。そのお手伝いをしたい。」 
いずれは中華民国を!と今居る場所ではなく先の野望で頭がいっぱいの 
ぎらつく目をもった人がまだ居るその時代の転換期に、 
高野さん達は語り続けた。 

その後、公共事業に力を入れるようになった台湾で 
ランドスケープデザイナーへの仕事が爆発的に増える。 
ここでも高野さんたちは現地台湾人達と仕事をする。 

ここでも、マレーシアと同じように 
発展している国のマネがもてはやされる。 
台湾のお金持ち達は、ローマのれ列柱を多用しヴィーナスの像を置いた 
噴水を中心とした庭を好んだ。 
高野ランドスケーププランニングはその傾向に警告を鳴らした。 
「台湾には台湾のスタイルがあるはずだ。それを一緒に考えてみよう」 

台湾の国中をあるき、森の奥へすすみ、川をさかのぼり 
樹をみて、石をみて、土をみて、原住民とその家、暮らし方をリサーチしながら 
台湾の景色作りを考えた。 
おおいに語り、現地の人たちを巻き込みながら台湾の街路や公園をつくっていった。 
今では台湾の大学には建築学科よりもランドスケープデザイン学科のほうが多いという。高野パワーはすごい。 
高野ランドスケーププランニングは今でも台湾の地を耕し続けている。 

石野氏は、台湾でもう20年も「高野ランドスケーププランニング台湾支所」の看板を背負って熱心に仕事を続けている。今も「その地で幸せに生きること」と提案し続けている。 


「今もっているものだけを使って より幸せになる工夫。それが人類が生き延びるための、ひとつの方法ではないかな と、そう思うんです。」 



満月「そんなわけで高野さんラブハート達(複数ハート)」 

新しい土地で、まずすることはAppreciate/Appreciex なのだという。 
つまり、その国を、あるいは土地を、高く評価し、賞賛するのだ。 
そして正しく認識をすること。 
果たしてそれは真実の魅力なのか?マネだけのはりぼてなのか? 
本当のことを知り、納得するために 
専門家や学者達にアドバイスをもらいながらも 
彼らは自分達で国中を歩き回る。 
土や樹や川に耳を傾け、原住民と仲良くなり教えを乞う。 
石を拾い、現地の酒を飲みながら 
特権階級や有識者、権力者ではない、そこに住む様々な人とも語り合う。 

土と水と樹と、もともとの土地、自然を知り、認め、尊敬する。 
その土地でのシンプルな暮らしをし、土地とともに生きてきた原住民を 
知り、認め、尊敬する。 
そこからはじまるのだ。 

その土地本来の魅力を引き出し、自然の営力を生かしながら設計をすすめる。 
(自然の営力をいかす方法についたは、またの機会に説明したい) 
地域の人を巻き込みながら。 
お祭りのように楽しみながら。 


高野ランドスケーププランニング、設立当初の四人の熱い話を聴いて 
高野ランドスケーププランニングはとても魅力的な会社だなと改めて思った。 

高野さんは、御歳63になる。 
1975年会社を設立してから32年の月日。 
地道に泥臭く、しかしとても魅力的な仕事を続けてきたのだ。 
世界のあちこちを耕して。 


講演会後は、もちろんお酒。 
高野ファミリーで飲んだ。 
高野さんにあつい想いをぶつけて入社してきたひと、 
そこから巣立っていったひと、 
それから、私のようにオープンデスク生としてお世話になった人も何人か混じっていた。 
アツイアツイお酒の席だった。 

「名古屋から東京まで出てきたの?遠かったねぇ。よく来たね。よく来たね。」 
と高野さんは笑って私の頭をなでてくれたのだが、 
愛知なんて近いものだった。 

北海道からはもちろん、 
昨日までパリで仕事をしていて、今日日本に着いたところだ という人や 
カナダで仕事をしていたんだけど帰国してきた という人や 
ドバイへ飛ぼう としている人 
オーストラリアからきた人や 
マレーシアから飛行機代自腹で飛んできた社員さんに 
台湾からやってきた人 

世界のあちこちから集まってきていたのだから、 
愛知からなんて、本当に近い距離だった。 

高野チルドレン達は各地で日々楽しみながら泥まみれで奮闘しているようだ。 
金銭的に豊かそうな人はなぜか見当たらないのだけれども(笑) 
いい笑顔をしている人がわんさかいて、 
それぞれがとってもおもしろいアツイネタを持っている。 

高野さんはそんな高野チルドレンを応援していくのが楽しみなのだと 
うっふっふ と嬉しそうに笑っていった。 
私にもオーストラリアの教授を一人紹介してくれた。 


「高野さんにアツイ想いをぶつけて世界各地へ飛び散っていった高野ファミリーの皆様のますますの発展を願って」 
そんな一本締めで 
お祭りのような 講演会&飲み会は幕を閉じた。 

帰り際、 
高野さんは、下駄箱からひとの靴をさっさっと出して並べるのだ。 
こんなときでも、偉ぶらなくて、ジェントルマン(笑)なんだ。 
そんなわけで、私は高野さんのことが大好きなんです。 
私にとっては史上最高のいい男です。 

…ね、素敵な人でしょ? 












さいごに高野さんに 
「ランドスケープアーキテクトとは?」と尋ねてみる。 
     
「ランドスケープアーキテクトとはね…」と高野さんはこたえる 

      
            「画家の目と 
              科学者の頭と 
               詩人の心を持った 
                専門家のことだよ」 

20071109

ヒマラヤ杉の樹の上で

人は日常の生活や煩わしい人間関係から逃れるために、 
  自分とほんの少しの大切な人だけの秘密の場所が必要だと思いませんか? 


ツリーハウスクリエイターKさんの言葉。 
秘密の隠れ家のようなツリーハウスをつくることを仕事とし 
秘密の場所で大切な人たちとほっこりした時間を日々送っている男。 

ツリーハウスとは、生きている樹を構造体、つまり柱としている建造物のこと。 
トリの巣のような。 

彼のオフィス 兼 サロン 兼 カフェ を訪ねました。 

静かで、ゆったりとした満ちた時間を過ごしました。 
だから、しずかに ゆったり、たんたんと その時間のことを書きとめておこうと思います。





東京都渋谷区。 
表参道のこぎれいなショップの角を横に折れて、 
てくてくてくとしばらく歩き 
古いかすれた看板の小さな花屋の角を曲がり 
車一台通れるかどうかといった感じの細い静かな路地に入れば 
ほどなく、道の脇をぴっちり埋め尽くす建築物に挟まれるようにして浮かぶ 
ソレ(オフィス 兼 サロン 兼 カフェ)を見つけることができる。 

一本の大きなヒマラヤスギの中ほどに 
串に刺さった団子のような緑の小屋。 
見上げれば樹の上の方に小さなデッキも見える。 

私が会うことになっていたのはKさんの弟子(?)のHさん。 
電話越しの声の感じだと、落ち着いた大人のひとを想像していたが 
思っていたよりも若いおにぃちゃん。 
部屋内を下から上へつっきる柱、ヒマラヤスギの樹の幹を囲むテーブルで彼は 
いい匂いのする紅茶を飲みながらツリーハウスの絵を描いていた。 

小さな小さな部屋の隅に小さなカウンターがあり 
スタッフの女の子が一人 
あったかぁいラテを淹れてくれた。 

「時間があるなら絵をかいていかない?ツリーハウスの」 
ひとしきり話した後、紙とペンを渡される。 
流れで絵を描くことになる。 

そうこうしているうちに、kさんが帰ってきた。 
日本におけるツリーハウスクリエイターの第一人者。 
写真のひと。すてきな人。 
「さむいなぁーーー。珈琲ほしいな」 
とびっきりのかわいい笑顔でカウンターに頼むと 
部屋の中に珈琲のにおいがたちのぼる。 
私の描いてるツリーハウスと、 
お土産でもってきたミニポートフォリオ(作品集)と 
例のコルゲートパイプの家についてまとめた冊子を肴に 
家や森や人の話をとりとめもなくする。 

「このドラム缶の家(川合邸)って基礎打ってないの?転がってるだけなの?でも人住んでいるんだよねぇ?住居なんだよねぇ???確認申請どうしてるのかなぁ???」 

なんでも、ツリーハウス確認申請を通らないらしい。 
住居として建築基準法的に認められないようだ。 
法律によると、建築物とは土地に定着するもの。 
建築の土台となる「基礎」が人工物ではなく 
自然の生きている樹の根であることが要因なのだそうで。 
建築ではないということはつまり、固定資産税の対象にもならないのだと 
Kさんは教えてくれた。 

日常生活の隙間にひっそりとある隠れ家、EscapeWorldのツリーハウスは 
法律的にもEscapeWord、法の隙間にあり 
税金の網の目もするっとくぐった現実世界から切り離された存在だなんて 
なんだかおもしろい話じゃない? 

私は笑ってしまうのだけど 
Kさんは大真面目。 
なんでも、ツリーハウスに暮らしていこうとした場合 
住民票がとれないのだと。 
「別に俺一人だったらそれでもかまわないけど、 
産まれてきた子どもに戸籍がないのは  
ちょっとかわいそうだからなぁ。」 
Kさんは今年、二人目のかわいいベイビーがうまれたところだ 

ぎっっとドアが鳴り 
若い男のこが入ってきた。 
常連さんのお客さんらしく 
幹を囲んだテーブル席のにストンと座ってカプチーノを頼み 
黙って本を読み始める。 

そうか、ここは一般にも開放されているカフェだったんだなと 
改めて思い出す。 
お客さんもスタッフも入り混じっている 不思議な場所だ。 


「コンニチハ。ハジメマシテ。ツウヤクノ○○デス」 
とドアを開けて通訳と名乗る女の人が入ってきた。 
なんでも今日はシンガポールテレビの取材が入っているらしく 
彼女はその下見のため早めにこのツリーハウスに来たらしかった。 

ん?シンガポール!? 
Kさんは最近カンボジア、 
アンコールワットを見下ろすツリーハウスをつくったのだ。 
有名な世界遺産に手を出しちゃったのだから、 
はるばるシンガポールから取材もこようもの。 
彼女も幹を囲んだテーブルについた。 
静かに本を読み続ける若い男のこの隣で 
あたたかい紅茶を飲みながら「予備知識」の為、 
と過去の作品の写真集をぺらぺらやりはじめた。 

「がっはっは」豪快な笑い声とともにやってきたのは 
ツリーハウスビルダー、大工の棟梁。 
ヒゲとロン毛の印象的な体格のいい男は 
「あったかい飲み物!」を頼み、仕事の打ち合わせをはじめた。 
若い男のツリーハウスクリエイションのメンバーは 
笑顔で話しながらパソコン作業をすすめる。 

その後、 
もう一人、スーツ姿のお客さんが来てカウンターでラテを飲み 
その隣ではツリーハウスクリエイションのメンバーの明るい女が 
忙しそうにひっきりなしに電話をしている。 
Hさんは、みんなと話しながらも、あいかわらず絵を描き続けて 
私もおしゃべりしながら絵を仕上げた。 

なんだろうこの居心地の良さは。 
家 みたいだ。 

小さな部屋は人でいっぱいになりあたたかく 
それぞれのカップからはあったかい湯気が立ち上り 
しかし天窓から見えるヒマラヤスギは風にゆれ外はなんだか寒そうで。 

ふとKさんが ここでよく開く 
大切な人たちと、親しい人たちでひらくホームパーティのことを話してくれた。 
ぎっちりむりやり人を詰め込んで最大20人 
このテーブルの上にはダッチオーブン料理をいっぱい並べて 
ともだちに演奏してもらって。 
樹の上で木の葉のざわめきにつつまれながら 
美味しいご飯と、飲み物と、音楽と気の合う仲間と 
こんな幸せなことってあるかい? 

と。 
そんな幸せなことってないわぁ。。 
と私も激しく何度も首をふって同意。 
「それにね。私ダッチオーブン大好きなんです!ほんとアイツは最高ですよね」 
と大興奮してダッチ話で盛り上がる。 
ここのカフェのメニューを見せてもらえば 
加熱するフードメニューは全てダッチオーブン料理というハマリよう。 

そんな旨いもの好きなひと達がつくる 
ダッチオーブン料理がいくつもテーブルに並ぶパーティだなんて 
想像しただけで幸せになる。 
いい夜なんだろな。 

それでこの天窓から月の光が落ちてきたら最高だけど、 
東京では難しいかしら なんて思いつつ 
改めて部屋内を眺める。 
ツリーハウスの写真や絵、本に模型はもちろんのこと 
ハンモック、でっかいザックにサーフボード 
クライミング用のザイルやカラビナやヌンチャク 
ハッピーな気分になれる道具たちだらけ。 
そして棚にはCaravanのCD…♪ 
「まぁ!!私Caravanだいすきなんですよぉ。」と言えば 
「まぁ って(笑)」と笑われた後 
「Caravanは友達だからね。そのよしみでここでCDも売ってるんだよ。」 
と! 
まっ!! 
「そぅかぁ。Caravanがすきなんだねぇ。よかったねぇそれは。Cravanも何度かここに来て歌っったんだよ。あと、ケイソンとか。」 


あぁぁぁぁぁなんて素敵なホームパーティ♪♪♪ 


山 森 ツリーハウス 樹 海  
クライミング サーフィン 
コルゲートパイプの家 
ひと セルフビルド こども かぞく 
カフェ ダッチオーブン Caravan 

私のすきなもの 好きなこと 
それぞれ別々に好きだったものが 
どんどんつながっていくよ 



シンガポールテレビの取材がはじまるというので 
私たちは席を移した。 
私たちというのは、私(23)と、 
お客さんの、例の本を読んでいたひと(20)と 
スーツ姿の男(23)の三人。 
「背景として自然に珈琲をのんでいて」とのこと。 
カウンターは狭くて 
三人座るとぎゅうぎゅう窮屈なほど。 
カウンターの向こう側の女の子(23)が 
「カウンターがいっぱいになったの初めて」と嬉しそうに笑った。 

どこか似た匂いのする同年代が部屋の隅に固まる。 
取材、しかもシンガポールのテレビ! 
てなもんで興味津々の私たちは つい聞耳をたて 
取材の様子を目で追っていたら 
通訳さんに注意を受けた。 
「カメラマンガ、ウシロノ ヨニンガ ミンナ コチラヲムイテイタ ト イッテイマス。 シゼンニ オネガイシマス」 

あちゃ。。。 
苦笑いしながらカウンターに向き直り 
まぁそれじゃぁと それぞれ自己紹介なんかをする。 
自己紹介とか気恥ずかしいから苦手。 
みんな静かでおだやかで笑顔がかわいい人達だなぁと ほこほこして話していたけど 
掘り下げて聞き出せば聞き出すほど 
実はみんな結構アツイひとだった。 

本を読んでいたハタチの男は物書きを目指していた。モモのような児童文学を書きたいのだといった。ネットに名前打ち込んで調べると受賞していることが分かった。 
自然を愛するカフェスタッフの女の子は映像と写真を「けっこう本気でやっている」と言っていた。とある夏フェスの背景の映像をやったのだ とネットで見せてくれた。ネットに本名打ち込んで検索すると、アマゾンにも飛んだ。23歳。彼女は本を出していた。世界を放浪したときの写真とエッセイの本。 


ちょっとわくわくする。 
みんなそれぞれ きらきらして 夢 を語る。 
それからみんな、森と海と、ツリーハウスが好きで 
ここのまったりとした空気が大好きなんだ。 
幸せな時間だった。 


「さて、と。私そろそろ行かなきゃ。今から早稲田に行くんだけど、早稲田まで行くのってどうやっていくのが一番便利?」 
私は席をたった。 
名残惜しいけど。 
すると物書きを目指すその人が 
「早稲田??俺、早稲田の生徒だよ」 
と言うんですよ。これがまた。 
スーツ姿の23歳が「おわ。すごい偶然だね。運命的だなぁ」 
と勝手に感動して。 
ところでこの人の口癖は「運命的」で、この日もなんど聞いたことか。 
「運命的に私と口癖が一緒」でおかしくなって笑いが止まらなかった。 



まだ続いているシンガポールテレビの取材を横目に私は帰り支度をする。 
目で挨拶をしてドアをあければ 

「おい。東京来ることがあったら、必ずここにも顔出せよ。」 

と声をかけてくれる。カメラマンさんがまた不機嫌な顔をした(笑) 
ごめんなさい。なんども取り直しさせて。 

「それから、ここで開くパーティ、こんど呼ぶから。…愛知じゃ遠いかぁ??」」 


「そりゃもう、ぜひとも!!ダッチオーブン持参して参加します!」 


ドアを開けて階段を降り 
ヒマラヤスギとツリーハウスを見上げる。 
空は薄暗くなりはじめ、緑の小屋の窓からはあったかいオレンジの光が漏れていた。 

ツリーハウスに別れを告げ、 
せっかくだから案内してくれるというので早稲田に向かう。