内田樹さんの著書「日本辺境論」の韓国語訳が出版されるらしく、
それがなんだかとても、嬉しくって、お祝いしたいなぁ、なんて勝手に思い、
それから、その韓国語版のための序文がまた小気味よくって、
これは紹介しなくては、と思い、ここに書き付けておくことにしました。
このブログではなるべく英語と日本語の両方で書くようにしようと自分にプレッシャーをあたえ続けていたのですが、今回はちょっと日本語だけにさせてもらいます。(のびのびリラックスして書きたくって)
さて、私の内田樹さんとの初めての出会いは、なにを隠そう「日本辺境論」。これがとってもおもしろくって。なにってまず前書き。想定されうる指摘をならべたてたうえで、その返答をあらかじめ書き、「なのでこういう指摘や批判、反撃は受け付けません」とまるで文句でもいうかのように不機嫌な調子で、ぶつぶつおっしゃるんです。ついふきだしてしまいました。そのうえ、この「日本辺境論」の読者に対してもなんだかちょっと批判めいたことを…まるで「やれやれ、この本を手にとっているって言うことは、君も典型的な日本人だね。日本文化論が好きで。そして新しい本にやたら目を惹かれるんだ。先人たちの偉大な本には目も通してないんだろう?こまったもんだ」と内田樹さんに叱られている気分になってしまうんです。もーせっかく本を手に取った読者に対してなんていう言いよう!でも、おっしゃることはもっともで。あぁきっとこの方、いままで、いろんなつまらない批判をされたり、新しい説や本ばっかり読むミーハーな読者にいらいらしたりと、苦労を重ねてきたのねーお疲れ様ですと本に向かってぺこりと頭をさげてみたり。つまりは、前書きの部分だけで、すっかり虜になってしまったわけなんです。私。本文ももちろんおもしろかったです。
本だけでなく内田樹さん自身も、とても素敵なおじさんなんだろうなぁ、と会ったこともないながらおもってしまいます。知的で、論理的で、かつ強気でふてぶてしい男性というのはなんて魅力的なんでしょう。(ふてぶてしい、とか言ってしまうと失礼でしょうか?)以来、内田樹さんのおっかけなんです。とはいってもブログを読んだり、ツイッターのつぶやき読んだり程度ですが。日本にいるわけではなく、海外のしかも辺鄙なタスマニアという島に住んでいる私には、ブログやツィッターというのはほんとうに嬉しいおっかけツールです。また、そのブログが毎回読み応えがあるもので(ときにふてぶてしさ全開だったりもしますが)。
ちなみに、すこし横道に逸れますが、内田樹さんはフランス文学と哲学の研究をずっとされてきた方なんですが、私が今、タスマニアで一緒に暮らしている人もフランス文学と哲学をこよなく愛する人で、それを知ったとき「なんてすごい!運命的だわ!」と興奮してしまったものです。この彼はまだ研究者、とはよべないほどの駆け出しのオーストラリア人ですが、けっこう本気でのめりこんでいて。私たちの共有の本棚にはもちろんフランス文学、それも英語でかかれたものと、フランス語でかかれたものがならんでいるんです。このハウスメイトが、知的で、かつ自分の意見をしっかりもっていて、それは曲がることがなく、やっぱり強気なんです。この人はもうちょっと詩的なかんじですが。こんなハウスメイトに偶然出会えて、一緒に暮らせて、日々ぺちゃくちゃとおしゃべりできるのはとても楽しい。日本で、男と女が同じ家に暮らしているといったら「一緒に暮らしている人」=恋人同士、婚約者、パートナー など特別な関係を想像する人が多いかと思いますけど(想像する、だけじゃんくって実際にそうだと思うけど)。こちらでは、他人同士で同じ家に暮らすということが一般的です。タスマニアには移民時代からの古い一軒家がのこっていたりするけど、アパートやマンションのようなものを見つけるのは非常にむずかしくて。家族を持たない若い独身者は、経済的にやむ終えずといったかんじでシェアハウスを選ぶ人がほとんどです。そのおかげで、なにかすこし内田樹さんとかぶるところのあるフランス文学と哲学大好き人間と、私はこうして偶然一緒に住んでいるわけです。
だいぶ話がそれました。知的で強気な人が大好きです、ということです。
「内田樹の研究室 みんなまとめて面倒みよう Je m'occupe de tout en bloc」のウェブサイトにあるブログに「日本辺境論」の韓国語版のための序文が載っていましたので、一部抜粋をして紹介したいとおもいます。
『この本が韓国語に訳されたことを、とてもうれしく思います。というのは、この本は韓国の人と中国の人にはぜひ読んで欲しいと思って書かれたものだからです。』
『本の最初の方にも書きましたけれど、日本人は「日本人論」「日本文化論」が大好きです。自分たちがいかに特殊な国で、特殊な国民性格と特殊な文化を持っていて、それが隣国と違うか、ということをことあるごとに論じます。たぶん世界でいちばん「自国文化特殊論」が好きな国民だと思います(というような書き方がその典型です)。
そのこと自体はまあ趣味の問題ですから、「お好きに」で済ませてもいいと思うんですけれど、問題は、この日本文化特殊論がしばしば隣国(中国、朝鮮、台湾)とわが国の比較のかたちをとり、「隣国の人たちの国民性格は陋劣であり、国民文化は質が低い」という命題を主張するものが少なくないことです。これは人間的態度としてもほめられたものではありませんし、学術的な厳密さを求める上でもよろしくない。』
日本人って世界でいちばん「自国文化特殊論」が好きな民族らしい、などとそれまで耳にしたことがなかったもので、初めて読んだとき新鮮な驚きを覚えたのをおぼえている。ところで、これは私の個人的な感覚として、「隣国の人たちの国民性格は陋劣であり、国民文化は質が低い」と話す人って日本人に限らずともいろんな国の人でけっこういるとおもう。全然学術的な論旨でもなんでもなく、ただ、私がオーストラリアに来て出会ったいろんな国の人がそれぞれの隣国について話す場面に出くわしたから、という私の経験談なだけだ。韓国、朝鮮の文化についてこき下ろす中国人。またその逆。ペルーの国民性格の粗悪さをのべるチリ人。インドを罵るパキスタン人。中国、インドを下にみるネパール人。どうやら隣り合う国は相性が悪いというのが常らしい、と思うようになってきたところ。どれもこれも、やっぱり聞いていてきもちがよくない。「人間的態度としてもほめられたものではありません」。
もちろん、日本文化を完全に劣悪なものとして意気揚々と私に聞かせてくる人も何人かいたわけで、そのたびに私は烈火のごとく憤怒してきたわけです(えぇ、時にとても感情的になってしまいました)。雪舟をバカにされたとき、俳句のこと、料理のこと、それから日本語という言語について。私も含めどの人も文化論を語るような学者ではなく、したがって、内田樹さんのように中立な、というか落ち着いた学術的な議論が展開したわけではありません。ただ、私が学んだことといえば、文化や民族に「優・劣」をつけようとすることの、馬鹿馬鹿しさかげんです。もうやめませんか、と。それぞれが、どんな特徴があって、どこが違うのかを話すのはおもしろいけれど、どちらが上でどちらが下か決めつける必要はないのでは?と。しかし同時に思うこと「もしかしたら人は、他者と自己、あるいわ私たちという集団を比べて、自分たちが秀でており特別なんだ、と思い込みたい生き物なのかもしれない」ということ。性(さが)のような?だってあまりにも多くの人がそういう考え方をしているから。
一年前ほど前に"Other/Otherness"というStaszakの文章を読んだときに私が感じたこと、は今も変わっていない。「人々が自分自身がなにものであるかを知りたい、確立したいという人々の欲求がある限り、「他者/他者性」の概念が消えさることはないだろう。しかし、私たちは、違うグループにグループわけすることで、不公平をうみだすかもしれないというリスクがあることを忘れてはいけない。「わたしたち」と「かれら」つまり、自己と他者の二つにグループ分けするときは特に。本質的な問題は、違いでも他者という概念でもなく、不公平と不均衡にあるのではないだろうか。」
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もう一箇所、紹介したい箇所があります。
『たまたま、長くフランスの文学と哲学を専門的に研究してきたせいで、自分の書いたものが「フランス語に訳せるかどうか」ということをものを書くときのひとつの基準にしてきたからです。
自分が日本語で書いたものを読み返すときに、私はいつも想像的に「これを翻訳するフランス人のつもり」になって読みます。そうすると、「これはちょっとフランス語にならないな」という箇所に身体が反応します。「フランス語にならない」のは統辞構造や語彙の違いのせいばかりではなく、「外国人が読むと、よく意味がわからない」ところ、「日本人同士にしかわからない話」が書かれているからです。ですから、それについては、改めて外国の人が読んでもわかるような「説明」を考える。
「外国人にもわかるように説明する」というのは、「ラディカルに(文字通り根源的に)説明する」ことを求めます。』
長くなってしまってすみませんがもうちょっとひっぱってきちゃいます。だって、この例え、「神話的構造を持つ野球」が絶妙なんですもの。「外国人にもわかるように説明する」というのは…
『「外国人にもわかるように説明する」というのは、「ラディカルに(文字通り根源的に)説明する」ことを求めます。
例えば、野球について書くとき、強打かバントか、真っ向勝負か敬遠か、といった技術的なことについて「野球を知っている同士」で話すことはそれほどむずかしくありません。でも、ここに「野球を全く知らない人」がいて、その人に「野球とは何か」を説明するのは、たいへんにむずかしい。説明しようとしたら、「ラディカルに」考えざるを得ないからです。野球の話なら、「ボールは『生きている』か『死んでいる』かいずれかの状態にある」、「『生きているボール』に人間が触れると何かが始まる(あるいは終わる)」、「二つの集団に別れて、一方は『生きているボール』に追いつかれるより早く『家』にたどりつこうとし、一方はそれを阻止しようとする」などなどという原理的な話から始まります。そして、そういう説明をしているうちに、説明している当人も、このスポーツが実はかなり神話的な構造を持ったものであることがわかってきます。他のボールゲームとの相同性も見えてくるし、差異も明らかになる。
今のは少し極端な例ですが、でも「外国人にもわかるように説明する」ためには、「原理的な話から始める」他ないというのはほんとうです。
私にとって、これは文章を書く上で、たいへんよい訓練になったと思います。別に私の書くものが「フランス語のように明晰にして判明になった」と言っているわけではありません。でも、「少しでもひっかかったら、できるだけ原理的なところから説明する」という習慣が身についたことです。』
さぁ、ここです、この部分です。
『「フランス語に訳せるかどうか」ということをものを書くときのひとつの基準に』という話は日本辺境論のなかでもでてきまして、印象に残った箇所でもあります。私は今、英語と日本語の両方で文章を書くことを自分に課しているところです。どちらにも(日本語を使う人に対しても、英語を使う人に対しても)、自分の言葉で発信していく人になりたいからです。まだまだ特訓中の身で、まだまだまだまだとはいえ、この挑戦(いまだ英語学習中である私にとっては大きな挑戦です)、この挑戦のおかげで、内田樹さんのいう『外国の人が読んでもわかるような文章』という意味を実感をともなって理解できるようになってきたと思っています。このブログをつくりにあたり、過去に別のところで書いたじぶんの文章をいくつか選び(お気に入りの記事、というわけです)、その自分の日記に英語訳をつけたそうとしたときに、愕然としました。
タスマニアに来る以前、日本で暮らし、日本で生まれ育ったひとばかりに囲まれて、日本語だけをつかっていたころに書いた文章は、直訳しただけではなりたたないからです。いろいろ分かり合えるもの同士、日本に育った方が読んでくれることを前提としてしまっていて、これじゃぁ、英語にしてこちらで出会った友人に伝えようとしたって、ぜんぜん話になりません。昔の日本語の文章に英語訳をつけるのは諦めました。言語を翻訳する、というだけのことじゃなく、書き方自体、というか、考え方、を改めることが要求されているんだなと、このバイリンガルブログに挑戦しながらひしひしと感じています。
今現在、英語と日本語の両方で文章を書こうとするときは、英語から先に書き、日本語訳をあとで添える、という書き方をしています。まだまだ日本の常識、や、日本語のボキャブラリーの方が圧倒的に多いわたしにとって、その方が楽にかけるからです。日本語から書き始めてしまうと、今日のブログでもおわかりのように、たったかたったか筆が進んでしまい、つたない英語であとからそれをおいかけるのは本当に至難の業。まずは英語力向上のために、英語を書くのに慣れなきゃ、ということです。ちなみに、そういうときはブログにも書いた順番に沿って、英語をのせそのあとで日本語を載せるようにしています。
で、ここのところ自分でも考えていたんですが、内田樹先生の文章を読みながら決心がついた、というかなんというか…うまく説明できないんですが…とにかくその「英語で書いてから日本語に訳す」という順番をひっくりかえそうかな。ということです。
というのも、最近、自分の日本語を書く力の成長が滞っている気がして。稚拙で雑な日本語ばかり書いている気がするんです。へなちょこな私の英語の文章力に日本語までもひっぱられてきている。以前「最近、さわやかで読みやすいいい文章書くようになってきたね」と言って貰えた、おなじ口から「最近の、翻訳した日本語っていうの?なんかあれ、変だよね。読みづらいし、時々意味が分からない」なんてかんじのことを言われてしまったのです。自覚していたことなだけになおさら、聞いたときはショックでした。すっかり縮こまってしまった自分の日本語を解放させてやりたいな、となんだか強く思い始めてます。
内田さんが「これを翻訳するフランス人のつもり」になって自身の文章を書かれたり、読み直されたりするように、わたしも「これを英語にする翻訳者になったつもり」で、これから日本語を書いていこうかなと。もちろん実際にその後、自分で英語に翻訳してみるんですが。うまくいくかしら。訓練ですね。精進あるのみです。なんだか勝手に内田樹さんに「しっかりがんばんなさい」と応援されてる気になってきているところです。女の想像力って恐ろしい。
と、まぁ、すっかり あっちへこっちへと 話が飛んでしまいましたが、
内田樹さん、ほんとに素敵!っていうラブレター、兼、勝手に「日本辺境論」の韓国語訳お祝いの日記でした。
あ、ちなみに、今回の内田樹さんのブログ、私のときめきポイントな一文(なんだろうそれ、とにかく、きゅんとした箇所ですね)は、内田樹さんの「ともかく私の書いたものを読んでにやりとしたり、「ふん」と鼻をならしている隣国の人の顔を想像すると、なんとなく心が温かくなるのである。」というとろ。
「ふん」と鼻をならしている隣国の人の顔。
わたし、つい、ふふっっと笑ってしまいました。
はい、なんとなく、心が温かくなります。
「内田樹の研究室 みんなまとめて面倒みよう Je m'occupe de tout en bloc」のウェブサイトの
「『日本辺境論』韓国語版序文」の記事はこちら
http://blog.tatsuru.com/2012/03/10_0903.php
Staszak,Jean-Francois. “Other/otherness”. International Encyclopedia of Human Geography. (2008).
を読んだときの私の感想。
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